オールマン・ブラザーズ・バンド
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デュアンの豪快なスライド・ギターをフィーチャーしたブラインド・ウィリー・マクテルのカバーStatesboro Blues、20分以上に渡るジャムが展開されるWhipping Postなどの演奏を収録した2枚組はビルボードのアルバム・チャートの13位を記録するヒットとなり[3]、ライブ盤の金字塔として知られるようになった。また、インストの「In Memory of Elizabeth Reed」にはこんなエピソードも。この曲はディッキー・ベッツが、よく行っていた川沿いの墓地でデートをしているときに作ったそうだが、その女性の名前をつける訳にはいかなかったので、ある墓碑銘に刻まれたIn Memory of Elizabeth Reedをそのまま拝借した。後日、このエピソードをデュアンがローリング・ストーン誌に暴露したそうである。
メンバーの死デュアン・オールマン(G)

『At Fillmore East』の成功から間もない1971年10月29日、デュアン・オールマンがメイコンにてオートバイでトラックに追突し、24歳で死去する。バンドは、後任ギタリストを補充せず、レコーディング途中だったアルバム『Eat A Peach』をベッツが中心となって完成させた。以後、ベッツがデュアンに変わってバンドのリーダーを務めるようになる。

1972年には、キーボードにチャック・リーヴェルが新たに加入する。しかし、1972年11月11日、デュアンに続きベリー・オークリーもオートバイ事故により亡くなってしまう。デュアンの事故現場から僅か3ブロックしか離れていないところでの事故であった。1974年のグループショット

度重なるメンバーの死にも関わらず、残ったメンバーはバンド活動を続行する。オークリーの後任にはラマー・ウィリアムズが加入し、翌1973年8月1日、『Brothers And Sisters』をリリース[4]。ビルボード全米アルバム・チャートNo.1の大ヒットを記録し[3]、アメリカの国民的バンドとしての地位を確立した。また9月にシングルカットされた "Ramblin' Man もポップ・チャート2位を記録した[3]

これに先立つ同年7月28日ザ・バンドグレイトフル・デッドとともにニューヨーク州ワトキンズ・グレンのワトキンズ・グレン・レース・サーキットにおけるライブ (サマー・ジャム)に参加。このイベントは、60万人もの観客が訪れた。

1975年8月、アルバム『Win, Lose or Draw』を発表し、全米アルバム・チャートで5位を記録[3]。同年11月25日、バンドはアメリカ民主党ジミー・カーターの大統領選挙キャンペーンを支援するコンサートに参加し[5]、カーターの支持母体サザン・バプティスト教会の支援を受ける。カーターの当選は南部のロック・バンドが最初に政治に深く関わった歴史的な一面も持つ[6]
活動停止と再開1976年のグループショット

だがメンバー間の音楽的な意見の相違と個人的対立が徐々に大きくなり、バンドの結束は徐々に崩れてしまった。そして1976年、バンドは解散する。グレッグとベッツはソロ活動に転じ、リーヴェル、ジェイモー、ウィリアムズはシー・レヴェルというバンドを結成するに到った。

2年後の1978年、グレッグがベッツに和解を呼びかける形でバンドを再結成する。リーヴェルとウィリアムズはシー・レヴェルでの活動を続けたため再結成には加わらず、新たにデヴィッド・ゴールドフライズ(ベース)、ダン・トーラー(ギター)が加入した。1979年にはアルバム『Enlightened Rouges』をリリースし存在感をアピールするものの、この後、デビュー当時から所属していたキャプリコーン・レコードが倒産してしまう。バンドはアリスタに移籍し、更に2枚のアルバムをリリース。1981年の『Brothers Of The Road』からのシングルStraight From The Heartはポップ・チャートの39位を記録し[3]、まずまずの成功を収めるが、バンドは1982年に再度解散するに到った。
2度目の再結成ディッキー・ベッツ(G)

1989年、ディッキー・ベッツ・バンドにいたギタリスト、ウォーレン・ヘインズとベーシストのアレン・ウッディ、それにジョニー・ニール(キーボード、ハーモニカ)を加え、バンドが再結成される。エピックと契約し、翌1990年、『Seven Turns』をリリース。1991年にはスパイロ・ジャイラなどで活動していたパーカッショニストのマーク・キニョーネスが加入。

1994年に『Where It All Begins』をリリースし、同年8月Woodstock '94に出演。1995年にはロックの殿堂入り[7]、さらに翌年には"Jessica"で第38回グラミー賞ベスト・ロック・インスト賞を受賞するなど、注目を集めていった。

1997年、ヘインズとウッディがガヴァメント・ミュール(Gov't Mule)の活動に専念するためにバンドから脱退する。後任にジャック・ピアソン(ギター)、オテイル・バーブリッジ(ベース)が加入した。1999年には、ピアソンに替わり、ブッチ・トラックスの甥にあたるデレク・トラックスが迎え入れられる。

2000年には、デレク加入後としては初のライヴ盤『Peakin' at the Beacon』を録音するが、同年、メンバーとの対立からオリジナル・メンバーのベッツがグループから追い出される形で脱退。


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