オールバニ会議
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ひとつは、軍事関連の役職者を置くことだった[3]。 この職務は、本国の政府により承認され、インディアンとの関係、辺境地帯の統治、軍事行動などに大きな権限を持つ、大総督[2]ともいうべき存在だった[1]。インディアンに関しては、彼らの指導者を、本国から呼び寄せた監督者に置き換えてはどうかという案もあった。これは、イギリス人たちの、オールバニのインディアンたちへの見方がそのまま反映されていた。イギリス人には、彼らは、本国の方針に従わない、野心的でさもしい物売りに映っていた[4]当時の風刺画。「参加か、さもなくば死か」とあり、ベンジャミン・フランクリンを皮肉ったものだが、後の独立戦争では、評価されることになった。

もうひとつは、13植民地の代表者による全体評議会の案だった。それぞれの植民地から、代表者1名で[1]多額納税者であり、インディアンとの条約の交渉に責任を持つこと、そして、間接税により賄われる、民兵による植民地間の防衛を担当することなどが、その職務だった[3]。民兵の育成に関しては、植民地の人間は、イギリスの正規兵を頼っており、あまり乗り気ではなかった[1]。また、この全体評議会案そのものも、国王が頂点である本国議会よりも、大きな力は持てそうになかった。何よりも、イギリス本国が、アメリカ植民地が連邦政府化して[2]、本国に抵抗しかねないような案の導入には、消極的だった。この会議の頃には、植民地の協力と統合は、まだ実行可能な選択肢ではなかったのである[3]。結局、いずれの案も、オールバニでは採決されても、植民地レベルでは否決され、この会議はその意味では成功とは言えなかった[2]。しかし、この会議は、のちの大陸会議に影響を与えることになった[1]

また、オールバニという、ヨーロッパ式文明を持ちながら、辺境地帯と境界を接した場所で、総督や入植者、そしてインディアンが一堂に会するということは、象徴的なことではあった[4]19世紀のオールバニ市庁舎(1743年ごろ建設)
植民地側からの出席者

ニューヨーク

ジョゼフ・ミュレー


ウィリアム・ジョンソン

ジョン・チェンバーズ

ウィリアム・スミス

ニューハンプシャー

テオドル・アトキンソン

リチャード・ウィブバード

メシェック・ウィアー

ヘンリー・シャバーン・ジュニア

マサチューセッツ湾

サミュエル・ウエルズ

ジョン・チャンドラー

オリバー・パートリッジ

ジョン・ワーシングトン

コネチカット

ウィリアム・ピトキン

ロジャー・ウォルコット

エリシャ・ウィリアムズ

ロードアイランド

スティーブン・ホプキンス

マーティン・ハワード・ジュニア

メリーランド

ベンジャミン・タスカー

エイブラハム・バーンズ

ペンシルベニア

ジョン・ペン

リチャード・ピーターズ

アイザック・ノリス

ベンジャミン・フランクリン

[5]
脚注^ a b c d e f g h iAlbany Congress
^ a b c d e 有賀貞・大下尚一・志邨晃佑ほか編 『世界歴史大系 アメリカ史1 17世紀-1877年』 山川出版社、1994年、100頁。
^ a b cAlbany Congress Facts, information, pictures 。Encyclopedia.com articles about
^ a bThe Albany Congress
^Ratified treaty # 5: The Albany Congress, and Treaty of 1754. O'Callaghan, E. B. (Ed.). (1855).


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