オールナイトニッポン
[Wikipedia|▼Menu]
□記事を途中から表示しています
[最初から表示]

^ 放送時間では4時間放送していた笑福亭鶴光が最長である。またアナウンサーを含めると、斉藤安弘は5年半の期間を毎週4時間、エバーグリーンとして5年半、週4日を2時間放送(更に増刊号放送もある)したのが放送時間最長となるほか、糸居五郎は11年半の期間DJを務めている。
^ 2014年10月から2020年5月までは単独で、それ以外はコンビ(ナインティナイン)で担当。2010年7月 - 11月は体調不良のため休演
^ アナウンサーを含めると、番組初復帰は今仁哲夫(1969年10月)である。
^ アナウンサーを含めると、最長期間での復帰は高嶋秀武の47年3か月である。
^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r 一部のネット局は29:00まで。
^ a b プロ野球ナイターオフシーズンのみ放送。ニッポン放送で特別編成によりプロ野球ナイター中継が行われる場合、ネット局には裏送りを行い、別途インターネット配信が行われる場合がある。
^ ナイターシーズンも中継のない日にナイタースペシャル扱いで放送
^ ENHYPENのメンバーであるJUNGWON・HEESEUNG・JAY・JAKE・SUNGHOONが9月2日に、NI-KIが9月5日に、それぞれ、新型コロナウイルスの感染が明らかになったため、2021年9月7日の放送をもって、当面の間、番組の放送をお休みになった。その後、2021年9月16日に、メンバー全員が完治したため、2021年10月5日(4日深夜)に放送が再開された。番組休止中は、週替わりでゲストが担当した。
^ 上野修(ドン上野)はこれについて「簡単に決まった」と述べている[34]
^ その時の放送中のスタジオの様子について、1968年に入社し、後に泉谷しげる、あのねのね、笑福亭鶴光のオールナイトニッポンのディレクターとして名をはせる鈴木隆は「(有楽町の旧社屋の)第5スタジオというのが4階にあって、そこで『オールナイト』をやっていたんだけど、とにかく静かでしたよ。なぜかというと、ディレクターが一人しかいない。ミキサーも兼ねているわけですから。構成作家もいないし、しゃべり手が自分でハガキを選んで曲を決める。基本的にそれだけだし、ちょっと、仕掛けを考えるのも本人ですし。それが第一次黄金時代のパターンですよ。だから、ディレクターにも責任があるし、緊張感ありますよね。僕らが夜中に通ってもスタジオには入れなかったんですもん。外から覗いて『やってるな』という印象は強烈にありましたね」と語っている[45]
^ 糸居五郎は「新しい時代の夜」、また「エバーグリーン」当時の斉藤安弘は「フレッシュな夜明け」と言っていた。このように、パーソナリティによっては部分的にアレンジして使うこともあった。
^ この曲は「酔っ払らい運転で事故を起こして死んだ男の天国での愚行、そして天国から追放されて生還するまでの顛末」を歌ったものであり、飲酒運転を容認してはならない、撲滅するべき立場にある自動車メーカーがスポンサーの番組で流すには相応しくないことも理由に挙げられる。なお、日産は1971年の秋をもって『パック』の提供スポンサーから降板している。
^ ある日の放送でザ・フォーク・クルセダーズの「イムジン河」をサンプル盤として放送したこともあったが、これについて斉藤安弘は「反体制までいかないけど、放送局の自主規制に突っかかっていた。安保闘争など世の中が騒然として活気があり、面白いことをやろうという深夜放送を、受け入れてくれる素地がありました」と当時の時代背景を振り返る[53]
^ 初代のパーソナリティの1人である斉藤安弘は「多岐にわたる選曲で、音楽の世界になじんだ人がいっぱいいた。さだまさしも私の放送をよく聞いて、リクエストはがきを何十枚も出したそうです」と番組初期の当時のエピソードを語る[53]
^ これについては亀淵自身が「くだらないことがいくらでもできた。テレビと違ってスターが“化粧”をしないラジオで、普段の声を伝えたかった」と、当時このような放送をした意図について語っている[53]
^ 亀渕は当時について、「僕は、女の子3人組、モコ・ビーバー・オリーブの『ザ・パンチ・パンチ・パンチ』とか、前田武彦さんの『ヤング・ヤング・ヤング』といった番組を作っていたんですけど、よくしゃべるし、面白いからお前がしゃべれよと。自由にさせてもらったし、いい時代だったと思いますね」「僕は“制作上がり”でしたから、“てをには”とか早口言葉とかがうまくないわけ。その分、ほかでカバーしないと追いつかない。立ってしゃべったらとか、走り回ったらとか、ハガキを放り投げたら(当時リスナーから届いた2万枚のはがきをスタジオに放り投げ、一番遠くに飛んだハガキ(リスナー)に1万円をプレゼントしていた)とか、一生懸命いろんなことをやりましたね。演出感覚ですね、それがちょっと違ってたんじゃないでしょうか」と語っている[62]。さらに、亀淵は、「特に、常木さんや高岡さんには感謝している。お二人のベースの路線がしっかりあったからこそ、僕やアンコー(斉藤)さんが“ハネた”放送をしても番組がもった。そういうものばかりでは番組は長続きしないから」と述べている[61]
^ 上記、オールナイト初期のオープニングキャッチである「君が踊り僕が歌うとき・・・」の口上はタレントパーソナリティ投入後にはほとんど使用されなくなり、かろうじて笑福亭鶴光とあのねのねだけがパロディ化し原型を大きく崩す形で継続した。ただし、1985年の鶴光ANNの最終回の際はパロディにせず、ほぼオリジナルそのままに読み上げた。一方で同じオールナイト初期の代名詞である「ビバヤング」のキャッチは比較的長く生き残り、タレント導入後もジングルや提供読みのときにそのフレーズを聴くことができたが、1980年代後半にはほぼ使われることはなくなった。
^ オールナイトニッポン25周年記念企画。雑誌「宝島」とのコラボレーションで開催された。
^ このうち『FMナイトストリート』の喋り手の一人であった赤坂泰彦曰く「FMでも深夜放送をやろう、AMに対するアンチテーゼとして、FMでもトーク主体の深夜番組をやろう。」ということである。なお、この番組の立ち上げには当番組の立ち上げにも携わったドン上野がかかわった。
^ パーソナリティ「一新」となったことから、1992年10月14日(水曜日)深夜3時 - 5時には新パーソナリティ陣などを紹介する「オールナイトニッポン新パーソナリティ前夜祭」が放送された。
^ 2012年4月の番組開始当初の放送時間は火曜-土曜 3:00 - 5:00(月曜から金曜の深夜)だった。
^ 『オールナイトニッポン0(ZERO)』の番組開始の当初は携帯端末向けマルチメディア放送として新たにスタートしたNOTTVのサービスの目玉の一つとして位置付けられていた[80]
次ページ
記事の検索
おまかせリスト
▼オプションを表示
ブックマーク登録
mixiチェック!
Twitterに投稿
オプション/リンク一覧
話題のニュース
列車運行情報
暇つぶしWikipedia

Size:675 KB
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
担当:undef