オールナイトニッポン
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注釈^ アルファベットの頭文字をとった略称。テレビ朝日のニュースネットワーク(ANN)とは別。
^ いずれの場合も通常使うニッポン放送本社のスタジオはBGMCM出しのための受けサブとして使われ、不測の事態に備え、ニッポン放送のアナウンサーまたは第2部を担当するパーソナリティが中継に向かわない番組スタッフとともに待機する。
^ この後ろに、25-27時を除き時間帯ごとの副題。一部はさらに「〇曜日」とタイムテーブル上の曜日を付け加える場合もある。
^ ネット局数にはニッポン放送自身も含む。
^ 2020年4月以降、第5水曜日がある月の場合、当該日は「オールナイトニッポン MUSIC10」としてスペシャルパーソナリティが担当、または「MUSIC10」の放送を休止し「オールナイトニッポンGOLD」名で特別番組を放送していたが、2024年1月以降、第5水曜日がある月の場合は名取裕子が担当する。
^ 2020年3月までは水曜日。
^ 2020年3月までは火曜日。
^ 毎週金曜の放送のほか、2020年10月以降の第5水曜日がある月は「MUSIC10」の放送を休止し「オールナイトニッポンGOLD」名でスペシャルパーソナリティを起用し放送
^ 『○○(パーソナリティー名)のオールナイトニッポンGOLD』として放送。
^ 第2期の開始日。第1期は2019年7月 - 2020年3月に放送された。
^ 2022年5月から2024年3月までは最終木曜日に放送。
^ 2017年3月までは月曜日。
^ 放送開始から2022年2月10日までは新内眞衣、2022年2月17日から久保史緒里。
^ 第2シーズンの開始日。第1シーズンは1994年4月から2014年9月まで放送された。
^ 第2期の開始日。第1期は2015年4月から2019年3月まで放送された。
^ 放送時間では4時間放送していた笑福亭鶴光が最長である。またアナウンサーを含めると、斉藤安弘は5年半の期間を毎週4時間、エバーグリーンとして5年半、週4日を2時間放送(更に増刊号放送もある)したのが放送時間最長となるほか、糸居五郎は11年半の期間DJを務めている。
^ 2014年10月から2020年5月までは単独で、それ以外はコンビ(ナインティナイン)で担当。2010年7月 - 11月は体調不良のため休演
^ アナウンサーを含めると、番組初復帰は今仁哲夫(1969年10月)である。
^ アナウンサーを含めると、最長期間での復帰は高嶋秀武の47年3か月である。
^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r 一部のネット局は29:00まで。
^ a b プロ野球ナイターオフシーズンのみ放送。ニッポン放送で特別編成によりプロ野球ナイター中継が行われる場合、ネット局には裏送りを行い、別途インターネット配信が行われる場合がある。
^ ナイターシーズンも中継のない日にナイタースペシャル扱いで放送
^ ENHYPENのメンバーであるJUNGWON・HEESEUNG・JAY・JAKE・SUNGHOONが9月2日に、NI-KIが9月5日に、それぞれ、新型コロナウイルスの感染が明らかになったため、2021年9月7日の放送をもって、当面の間、番組の放送をお休みになった。その後、2021年9月16日に、メンバー全員が完治したため、2021年10月5日(4日深夜)に放送が再開された。番組休止中は、週替わりでゲストが担当した。
^ 上野修(ドン上野)はこれについて「簡単に決まった」と述べている[34]
^ その時の放送中のスタジオの様子について、1968年に入社し、後に泉谷しげる、あのねのね、笑福亭鶴光のオールナイトニッポンのディレクターとして名をはせる鈴木隆は「(有楽町の旧社屋の)第5スタジオというのが4階にあって、そこで『オールナイト』をやっていたんだけど、とにかく静かでしたよ。なぜかというと、ディレクターが一人しかいない。ミキサーも兼ねているわけですから。構成作家もいないし、しゃべり手が自分でハガキを選んで曲を決める。基本的にそれだけだし、ちょっと、仕掛けを考えるのも本人ですし。それが第一次黄金時代のパターンですよ。だから、ディレクターにも責任があるし、緊張感ありますよね。僕らが夜中に通ってもスタジオには入れなかったんですもん。外から覗いて『やってるな』という印象は強烈にありましたね」と語っている[45]
^ 糸居五郎は「新しい時代の夜」、また「エバーグリーン」当時の斉藤安弘は「フレッシュな夜明け」と言っていた。このように、パーソナリティによっては部分的にアレンジして使うこともあった。
^ この曲は「酔っ払らい運転で事故を起こして死んだ男の天国での愚行、そして天国から追放されて生還するまでの顛末」を歌ったものであり、飲酒運転を容認してはならない、撲滅するべき立場にある自動車メーカーがスポンサーの番組で流すには相応しくないことも理由に挙げられる。なお、日産は1971年の秋をもって『パック』の提供スポンサーから降板している。
^ ある日の放送でザ・フォーク・クルセダーズの「イムジン河」をサンプル盤として放送したこともあったが、これについて斉藤安弘は「反体制までいかないけど、放送局の自主規制に突っかかっていた。安保闘争など世の中が騒然として活気があり、面白いことをやろうという深夜放送を、受け入れてくれる素地がありました」と当時の時代背景を振り返る[53]
^ 初代のパーソナリティの1人である斉藤安弘は「多岐にわたる選曲で、音楽の世界になじんだ人がいっぱいいた。さだまさしも私の放送をよく聞いて、リクエストはがきを何十枚も出したそうです」と番組初期の当時のエピソードを語る[53]
^ これについては亀淵自身が「くだらないことがいくらでもできた。テレビと違ってスターが“化粧”をしないラジオで、普段の声を伝えたかった」と、当時このような放送をした意図について語っている[53]
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