オールスター家族対抗歌合戦
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なお、最終回を迎えたのは、放送700回まであと1回だった。番組はその後も同年7月から9月まで「終了特別企画」と銘打ち、同時間帯でプロ野球ナイター中継を挿みながらも、出場家族の名場面などを放送していた。

この番組の終了を決断したのは、この番組の放送開始時点ではアシスタントディレクターだったが、番組終了時点ではプロデューサーまで登りつめた浜口哲夫で、その際に「笑いの質の変化」を感じていたという[4]。浜口は後のインタビューで「萩本欽一の時代からビートたけしの時代に変わり始めていたんです。」とした上で、「テレビにおけるバラエティーショーのベースにある笑いの質が確実に変わり始めていたんです。」と説明している[4]。その上で、「僕は欽ちゃんから、“誰かの欠点をあげつらったり、弱い者いじめしたりして笑いをとるな”と学びました。でも、時代は確実にブラックギャグ、ビートたけしの毒ガスの時代に変わった。それはたけしさん個人の責任や影響ではなくて、時代がそうなっていたんです。」とも述べている[4]

実際に1985年4月からは、裏番組で日本テレビが日曜20時枠にビートたけしを起用した『天才・たけしの元気が出るテレビ!!』の放送を始めていて、浜口も「『家族対抗』の視聴率がジリジリと下がっていくのを見て、“これは放っておくと哀れな末路になるな”と思ったので、“まだ元気なうちにやめてしまおう”と決断しました。」と番組終了の決断について語っている[4]
BSフジでの復活

レギュラー放送終了から30年後の2016年より、BSフジにて年2回ペースの不定期特番として放送されている。司会は萩本の愛弟子の東貴博が務めている。「#BS復活特番」を参照
ルール

一回戦では各チームが一人ずつ3曲歌唱した。2チームが決勝に進出して(チーム全員で歌唱する)優勝を争った。優勝が決定すると、天井に吊るされていた
くす玉が割られて(くす玉が割られるシーンは映らず)大量の紙吹雪とたくさんの風船(子供たちへのプレゼント。風船は毎回参加者の子供たちが拾っている場面が放送され、その風船を持ち帰るのが定番であった)が降り、KLMオランダ航空で行く海外旅行(バンコク旅行)を獲得できた。因みに時たま萩本の優勝チームへのインタビューの際に、割られたくす玉が映される時があり、金色のくす玉に色とりどりの紙テープと『おめでとう!』の懸垂幕がついていた。

グランドチャンピオン大会では優勝チーム6組が進出し、3チームずつ2ブロックに分けられていた。一回戦では全員で歌を歌い、それぞれ1チームずつが決勝進出。決勝戦でも引き続き全員で歌い、グランドチャンピオンを決定。審査員長からゴールデントロフィーが手渡されてヨーロッパ旅行獲得となった。

まれに決勝に進出したチームの両方が優勝することもあった(末期には常態化した)。決勝進出を逃したチームにも「ハッスル賞」「ユーモア賞」「アットホーム賞」があり、結果として出場全チームが必ず何かの賞を貰うことができた。それぞれの賞受賞チームにも、協賛各社提供による商品(東鳩製菓のお菓子詰め合わせ、フランスベッドの寝具他)が贈呈された。一時萩本時代末期、2代目司会者小川宏時代初期には全チームの歌が終わった後に優勝チームを決めるルールがあった。

なお中期からは、一定のテーマに沿った家族が出場する「スペシャル大会」が年に何回か行われていた。音痴芸能人や家族が出場する「かわいそう家族大会」では、細川たかしの実父や斉藤清六が常連として出場していた。

セット

ブルーバックにY字型の電飾があり、それと同じ位置にオーケストラピットが位置していた。また、審査員席は客席の最前列に位置していた。さらに番組初期においては、ステージ奥上方(ホリゾント)部に天井から吊り下げた「オールスター家族対抗歌合戦」のタイトルロゴとスポンサー名が書かれていた。
出演者
司会

初代:
萩本欽一(1972.10.1 - 1984.6.24)

2代目:小川宏(1984.7.1 - 1986.9.28)

アシスタント
萩本司会時代


初代:
奈良富士子(1972.10 - 1973.9)

2代目:あさかまゆみ(1973.10 - 1976.6)

3代目:高木しげ美(1976.7 - 1978.3)

4代目:坂下裕子 (1978.4 - 1984.6)

小川司会時代


5代目:菅原歌織(菅原洋一の娘、1984.7 - 1986.3)

6代目:榊原郁恵(1986.4 - 9)

審査員

古関裕而 - 萩本欽一とともに降板。

近江俊郎 - 萩本が人気復活に貢献させる。

水の江滝子

立川清登[5]

ダン池田 - 演奏バンド「ダン池田とニューブリード」のバンドマスターだが、番組中は別のメンバーがバンドマスターだった[6]

塚田茂 - 番組の構成・監修を担当していた。

東八郎[7] - 1984年7月から最終回まで。

木原光知子

出門英
など
1994年の復刻版


明石家さんま

関根勤

瀬川瑛子

関根潤三(当時フジテレビ野球解説者)

露木茂(当時フジテレビアナウンサー)

スタッフ

コーラス:サンフラワーズ

演奏:ダン池田とニューブリード

構成:
塚田茂、柴田昭

音楽:半間巌一、小泉宏

美術:高橋幸夫

技術:松本昌明

照明:山際邦康

ディレクター:藤田洋一、小池比呂志

プロデューサー・ディレクター:浜口哲夫

協力:KLMオランダ航空

製作著作:フジテレビ

テーマソング
「ドレミファくんこんにちわ」
歌:朝加真由美(
CBSソニー・SOLB 308 A面)
「ハロー・チャーミング」
作詞:さいとう大三 / 作曲:佐藤健 / 編曲:高田弘 / 歌:朝加真由美(CBSソニー・06SH 33 A面)
「みんなで幸せ!」
作詞:芳野薫 / 作曲:佐藤義彦 / 編曲:高田弘 / 歌:坂下裕子(キングレコード・GK-204 B面)
「歌声とんでゆけ!」
作詞:芳野薫 / 作曲:佐藤義彦 / 編曲:高田弘 / 歌:坂下裕子(キングレコード・GK-204 A面)
「笑顔が大好き」
作詞:松本ひとみ / 作曲:小泉宏
「愛・愛・愛」
作詞:なかにし礼 / 作曲:出門英
放送時間

いずれもJST、フジテレビでの放送時間。

日曜 20:00 - 20:56(1972年10月 - 1973年9月)

日曜 20:00 - 20:55(1973年10月 - 1975年9月)

日曜 20:00 - 20:54(1975年10月 - 1986年9月)

正月特集

毎年一発目の放送は、1977年までは「新春グランドチャンピオン大会」を放送[8]していたが、1978年からは(1979年を除き)「正月特集」という企画物を放送していた。枠も後期から拡大し、また生放送で行う様になった。ここでは「グランドチャンピオン」以外の「正月特集」を取り上げる(特記されてない放送枠は通常枠)
新春お楽しみ大会 審査員ヒットパレード[8]
1978年1月1日放送。初の正月特集で、しかも史上唯一の「元日」放送となった[9]。ゲストは高田浩吉ジェリー藤尾久保明ほか。
賀正おめでた家族大会[8]
1980年1月6日放送。前年の1979年は「グランドチャンピオン」を放送したので、2年振りの正月特集。ゲストは黒澤久雄林寛子若原一郎若原瞳佐竹明夫ほか。
新春初笑い五福神大会[8]
1981年1月4日放送。「漫才ブーム」にちなみ、B&Bツービートザ・ぼんちなどといった漫才師が出演。
新春生放送!歌う家族に福が来る[8]


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