オードリー・ヘプバーン
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その後も『麗しのサブリナ』(1954年)、『尼僧物語』(1959年)、『ティファニーで朝食を』(1961年)、『シャレード』(1963年)、『マイ・フェア・レディ』(1964年)、『暗くなるまで待って』(1967年)などの人気作、話題作に出演している。女優としてのヘプバーンは、映画作品ではアカデミー賞のほかに、ゴールデングローブ賞英国アカデミー賞を受賞し、舞台作品では1954年のブロードウェイ舞台作品であるオンディーヌトニー賞 演劇主演女優賞を受賞している。さらにヘプバーンは死後にグラミー賞エミー賞も受賞しており、アカデミー賞、エミー賞、グラミー賞、トニー賞の受賞経験を持つ数少ない人物の一人となっている。

70年代以降ヘプバーンはたまに映画に出演するだけで、後半生の多くの時間を国際連合児童基金(ユニセフ)での仕事に捧げた。ユニセフ親善大使として1988年から1992年にはアフリカ、南米、アジアの恵まれない人々への援助活動に献身している。1992年終わりにはアメリカ合衆国における文民への最高勲章である大統領自由勲章を授与された。この大統領自由勲章受勲一カ月後の1993年に、ヘプバーンはスイスの自宅で虫垂癌のために63歳で死去した[7][8][9]
前半生

ヘプバーンは、1929年5月4日にベルギーの首都ブリュッセルイクセルに生まれ、オードリー・キャスリーン・ラストンと名付けられた[6]

父親はオーストリア・ハンガリー帝国ボヘミアのウジツェ出身のジョゼフ・ヴィクター・アンソニー・ラストン(1889年 - 1980年)である[10][11][注釈 1]。ジョゼフの母親はオーストリア系で[注釈 2]、父親はイギリス、オーストリア系だった[14]。ジョゼフはヘプバーンの母エラと再婚する以前に、オランダ領東インドで知り合ったオランダ人女性と結婚していたことがある[15]。ジョゼフはヘプバーンの各伝記によって銀行家など、色々な職業にされていることがあるが、実際には一度もまともに職業に就いたことはない[16][17]。ただし、趣味は一流で、13ヶ国語を話せた[18]

ヘプバーンの母エラ・ファン・ヘームストラ(1900年 - 1984年)はバロネスの称号を持つオランダ貴族だった[19][20][21]。エラの父親は男爵アールノート・ファン・ヘームストラ(英語版)で、1910年から1920年にかけてアーネム市長を、1921年から1928年にかけてスリナム総督を務めた政治家である[21][22][23]。エラの母親もオランダ貴族の出身だった[24]。エラは19歳のときに、ナイト爵位を持つヘンドリク・グスターフ・アドルフ・クアレス・ファン・ユフォルトと結婚したが、1925年に離婚している[25]。エラとヘンドリクの間には、ヘプバーンの異父兄のアールノート・ロベルト・アレクサンデル・クアレス・ファン・ユフォルト(1920年 - 1979年)と、イアン・エドハル・ブルーセ・クアレス・ファン・ユフォルト(1924年 - 2010年)の二人の男子が生まれている[26][25][27]

ジョゼフとエラは、1926年9月にバタヴィア(現・ジャカルタ)で結婚式を挙げた[19][25][27]。その後二人はイギリスでの生活を経てベルギーのイクセルへ移り住み、1929年にオードリー・ヘプバーンが生まれた[28]。さらに一家は1932年1月にリンケベークへと移住している[29][30]。ヘプバーンはベルギーで生まれたが、父ジョゼフの家系を通じてイギリス国籍を持っていた[31]

結婚後、家系図マニアだったエラは、ジョゼフの祖父(ヘプバーンの曽祖父)の妻にスコットランド女王メアリの3番目の夫である第4代ボスウェル伯ジェームズ・ヘプバーンの末裔[9] がいるのを発見し[32][33]、それを機にヘプバーン=ラストンを公式に使用するようになった[32][34]。そのためオードリーの戸籍上でもヘプバーンが足されることになった[35]。1948年、ハーグの英国大使館にて発行されたヘプバーンの身分証明には“オードリー・ヘプバーン=ラストン”と書かれており[36][37]、1982年以降のパスポートにはオードリー・K・ヘプバーンと書かれている[38][39][注釈 3]


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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