70年代以降ヘプバーンはたまに映画に出演するだけで、後半生の多くの時間を国際連合児童基金(ユニセフ)での仕事に捧げた。ユニセフ親善大使として1988年から1992年にはアフリカ、南米、アジアの恵まれない人々への援助活動に献身している。1992年終わりにはアメリカ合衆国における文民への最高勲章である大統領自由勲章を授与された。この大統領自由勲章受勲一カ月後の1993年に、ヘプバーンはスイスの自宅で虫垂癌のために63歳で死去した[7][8][9]。 ヘプバーンは、1929年5月4日にベルギーの首都ブリュッセルのイクセルに生まれ、オードリー・キャスリーン・ラストンと名付けられた[6]。 父親はオーストリア・ハンガリー帝国ボヘミアのウジツェ出身のジョゼフ・ヴィクター・アンソニー・ラストン(1889年 - 1980年)である[10][11][注釈 1]。ジョゼフの母親はオーストリア系で[注釈 2]、父親はイギリス、オーストリア系だった[14]。ジョゼフはヘプバーンの母エラと再婚する以前に、オランダ領東インドで知り合ったオランダ人女性と結婚していたことがある[15]。ジョゼフはヘプバーンの各伝記によって銀行家など、色々な職業にされていることがあるが、実際には一度もまともに職業に就いたことはない[16][17]。ただし、趣味は一流で、13ヶ国語を話せた[18]。 ヘプバーンの母エラ・ファン・ヘームストラ(1900年 - 1984年)はバロネスの称号を持つオランダ貴族だった[19][20][21]。エラの父親は男爵アールノート・ファン・ヘームストラ
前半生
ジョゼフとエラは、1926年9月にバタヴィア(現・ジャカルタ)で結婚式を挙げた[19][25][27]。その後二人はイギリスでの生活を経てベルギーのイクセルへ移り住み、1929年にオードリー・ヘプバーンが生まれた[28]。さらに一家は1932年1月にリンケベークへと移住している[29][30]。ヘプバーンはベルギーで生まれたが、父ジョゼフの家系を通じてイギリス国籍を持っていた[31]。
結婚後、家系図マニアだったエラは、ジョゼフの祖父(ヘプバーンの曽祖父)の妻にスコットランド女王メアリの3番目の夫である第4代ボスウェル伯ジェームズ・ヘプバーンの末裔[9] がいるのを発見し[32][33]、それを機にヘプバーン=ラストンを公式に使用するようになった[32][34]。そのためオードリーの戸籍上でもヘプバーンが足されることになった[35]。1948年、ハーグの英国大使館にて発行されたヘプバーンの身分証明には“オードリー・ヘプバーン=ラストン”と書かれており[36][37]、1982年以降のパスポートにはオードリー・K・ヘプバーンと書かれている[38][39][注釈 3]。