オートバイ
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それから半年後、旧三菱重工業系の中日本重工(実質後の三菱自工[注釈 26])はアメリカのサルスベリー式をモデルにシルバーピジョンを開発し、これら2台が終戦直後の日本製スクーターの双璧となった[26]。ラビットが好調な売れ行きを見せ、戦前のオートバイメーカーも製造再開を目指す中、1948年(昭和23年)に発足した日本小型自動車工業会によりGHQや官庁との交渉を経て様々な規制撤廃に成功し、オートバイ産業が有望であるとの認識が広まり、新規参入するメーカーも多く現れた[26]。新明和興業、昌和など名前を残す企業も存在したが、社名を掲げながら実状としては自転車屋の軒先で月に数台製造する程度の個人店も多かった。1953年には113社が参入して製造会社数の全盛期を迎えるが、1955年の経済不況に直面すると既存のメーカーを含む137社が撤退。技術力と資金が伴わない業者は一気に淘汰された[27]

一方、スクーターが高額で購入することができなかった層を中心に自転車用補助動力、バイクモーターの需要が高まり、みづほ自動車製作所がビスモーター[注釈 27]を発売し、本田技研工業は日本陸軍払い下げの軍事無線機用小型エンジン[注釈 28]をベースに開発を重ね、後にホンダ・カブF型(通称「バタバタ」)を1952年(昭和27年)に発売する[28]。こういったバイクモーターの流行に商機を見出し、スズキもオートバイ製造を開始した。

群雄割拠の時代にあって名前を売るにはレース活動が典型で、1950年(昭和25年)頃に復活し始めたレースはこういったメーカーの競争の場として利用されるようになっていった[26]。当時はオートレース場は存在していたがサーキットは存在せず、レースは最初は競馬場や運動場、のちに公道で行われるようになっていった[26]。まず口火を切ったのは1953年(昭和28年)3月21日に行われた名古屋TTレース浜松静岡間レース、富士山本宮浅間大社から富士宮登山道を2合目まで走破する富士登山レース、そして国内レースの最高峰として浅間火山レースなどが行われるようになった[29]。戦中に戦闘機用プロペラなどを製造していたヤマハは設備の平和的な利用方法としてオートバイ製作に着手、後発メーカーである知名度の低さをこうしたレースで高めようと、YA-1を浅間火山レースへ参加させ、125ccクラスで上位を独占するといった功績を残した。こうしてレース活動が熱を帯びるにつれ、高速走行に適さず、指示標識も足りない不十分なコースや警察との連携不足が問題になり、専用のコース新設を求める声に応える形で浅間高原自動車テストコース開設へと業界は動き出した[29]。当時の国産車を見るとホンダ・カブF型で50cc1ps/3,500rpm、シルバーピジョンは150cc3馬力、対するドイツ製オートバイ、クライドラーK50は50ccで2.5ps/5,000rpmを発揮[注釈 29]、国産オートバイに対し海外製オートバイの性能は圧倒的で、こうしたレース活動は名前を売る目的のほか、海外のオートバイに追いつく技術開発を進める場としても活躍した[26]

こうしてオートバイは単なる移動手段ではないという認識が広まりだすと、当時の好景気と相まって消費者による峻別が始まった。三種の神器と呼ばれる電化製品が家庭に広がりを見せる中、最低限の移動手段として提案されたバイクモーターの需要はなくなり、これらの製品を主として製造していたメーカーがまず打撃を受けた[28][注釈 30]。あるいは戦前と戦後でオートバイの流行が大きく変わったことも影響は大きく、戦前においてはアメリカンが人気であったが、戦後になりイギリスやドイツなどの車両が人気となり、戦後勃興したメーカーに比べ、戦前から存在したメーカーほどこの流行を捕らえた車両開発に取り掛かるのが遅れた[30][注釈 31]。また、当時の流行であったトライアンフやDKWなどのヨーロッパ製車両の外観は模すものの、ただ鈍重なだけで走行性能の伴わない車両を製造していたメーカーは、レースにおける実績に裏づけされた車両と比べられて選ばれることはなかった。加えて、戦後の統制下であっても自分達の技術や設備を行使できる分野として、規制が緩かったためにオートバイ産業を選んだメーカーには、統制が解かれたことや好景気を受けて、本業に復帰、あるいは他の産業に商機を求めて転業する企業も少なくなかった[31][注釈 32]。目黒製作所が1960年(昭和35年)に業績悪化から川崎重工との提携を行うものの改善せず、1964年(昭和39年)にそのまま吸収される形で戦前から続いていた企業は全て消滅することとなった[30]

こうした過当競争は、販売車両の性能向上や量産体勢の拡大へとつながっていく。1958年(昭和33年)に発売されたスーパーカブは対抗車種が2.5ps程度の時代に空冷4ストロークOHV49ccエンジンから4.5psを発揮し、なおかつ55,000円の低価格で、当時の事業規模を大きく変えるほどの月産5万台を標榜し、業界の構造を大きく変えた[31]。他の有力メーカーは同価格帯で対抗車種を販売し、対抗しうる性能や販売体制を実現できない企業は撤退を余儀なくされた[31]1959年(昭和34年)、この勢いそのままに、ホンダは独自の精密加工技術を生かした並列多気筒エンジンを採用してマン島TTに参戦し、1961年(昭和36年)に優勝を達成する[32]


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