以後、第二次世界大戦下の日本で「陸王」のみが生産されるようになるまでには、「陸王」の他に「アサヒ号」「JAC号[注釈 19]」「SSD号[注釈 20]」「あいこく号[注釈 21]」「キャブトン[注釈 22]」「リツリン号[注釈 23]」「くろがね号[注釈 24]」「メグロ号[注釈 25]」などが存在していた[18]。
戦況の長期化、悪化によってオートバイ産業は軍需品の製造に転換せねばならなくなり、陸王内燃機でのみがオートバイを製造していた。同社は三共の系列企業で、1931年(昭和6年)にハーレー・ダビッドソンの輸入販売業として設立された[18]。その後、国産化の流れの中で同社の専務を務めた永井信二郎は生産体制を確立するためにアメリカ、ミルウォーキーのハーレー・ダビッドソン工場へ設備調達のため渡米する。本国アメリカからエンジニアを招聘し、100名程度の従業員や機械設備を整えて、1935年(昭和10年)に自社生産のハーレー・ダビッドソンが品川工場で初めて完成した[18]。陸王の名称の由来は永井信二郎の母校である慶應義塾大学の『若き血』のフレーズ「陸の王者」にちなんでつけられたという[18]。しかし次第に十分な資材確保も難しくなり、1937年(昭和12年)頃から製造を行っていた帝国陸軍用の九七式側車付自動二輪車は1943年(昭和18年)には月産90台程度製造されていたが、戦争末期には月産50台に減少した[18]。
第二次世界大戦終戦後、日本の軍用機や軍用車を製造していた企業がアメリカ軍を中心として連合国軍の占領政策を実行したGHQ(SCAP)によって航空機や自動車の製造を禁止され、所属していた技術者達はその技術を活かす場を求めていた[26]。一式戦「隼」や四式戦「疾風」といった陸軍機で知られる中島飛行機を源流に持ち、戦後に解体、平和産業へ転換させられた富士産業(後のSUBARU)もその1つであったが、1945年(昭和20年)当時、日本に駐留していた連合軍が持ち込んだアメリカのパウエル式やイギリスのコルギ式といったスクーターの簡素な車体が、材料が十分に確保できない状況で作れる製品として富士産業の技術者関心を集め、規制の緩かったオートバイ業界へ技術者が流入し始めたためである[26]。しかしながら敗戦後間もない日本国内では開発は始まったものの材料不足でさらに材料調達自体がほぼ不可能に近いという状況は非常に深刻で、一時は海軍機である「銀河」の尾輪をタイヤに転用したり、ピストン周辺はダットサンの部品を流用したりするなど、新規に部品すら製造できない状況の中で試作品は作られた[26]。1946年(昭和21年)の夏に試作機が完成し、同年11月からラビットスクーターS1として発売された。定価は11,000円程度であった。これは交通の不便な終戦直後にあって歓迎され、月産300台から500台程度生産されることとなった[26]。
それから半年後、旧三菱重工業系の中日本重工(実質後の三菱自工[注釈 26])はアメリカのサルスベリー式をモデルにシルバーピジョンを開発し、これら2台が終戦直後の日本製スクーターの双璧となった[26]。