オートバイ
[Wikipedia|▼Menu]
□記事を途中から表示しています
[最初から表示]

1909年(明治42年)に島津楢蔵が初の国産車であるNS号を製造[25]。その後、1910年(明治43年)に山田輪盛館(ドイツのNSU製品の輸入販売)や山口勝蔵店(イギリストライアンフ、アメリカのインディアンの輸入販売)といったオートバイ専門輸入商が創立され、1917年大正6年)に大倉商事がハーレーの輸入を開始した[注釈 18]。その後、島津楢蔵はいったん航空業界に転身し、9気筒回転型空冷80馬力エンジンを帝国飛行協会でのコンテストに出品して1等を受賞するなどの実績を残した[18]三井物産で取締役を勤めた山本条太郎により、その当時の航空事業はもはや個人に運営できる規模で太刀打ちできる産業ではない、といった助言を受けて自動車学校を設立するも、大阪府に総台数200台の時代にあって4年間で300名のエンジニアを輩出するなど迷走し、自動車学校は1922年大正11年)に閉鎖の憂き目にあう[18]。こうした紆余曲折を経た後にオートバイ開発に復帰し、航空業界で培った技術を応用したエーロ・ファースト号を3年後に完成させる。搭載された633cc、4ストロークサイドバルブ単気筒エンジンは6.5ps、最高速度40km/hを実現した[18]。このまま事業化を画策していたが、世界情勢の悪化やニューヨーク株式市場の暴落に端を発する世界恐慌の不況による影響から計画は難航し、1930年昭和5年)には廃業を余儀なくされる[18]。結局、日本で初めてオートバイの量産、商品化が実現されるのは1933年(昭和8年)のアサヒ号A型であった[18]。この車両は1914年(大正3年)に宮田製作所が製作し、一部が「黒バイ」として警察に納入されていた車両を発展させたもので、2ストローク175cc、単気筒エンジンを搭載し最大出力は5psだった。翌年1934年(昭和9年)に増加試作13台、翌々年1935年(昭和10年)4月から量産体勢に入り、販売価格は標準品340円、特級品370円で、生産量は1937年(昭和12年)から1939年(昭和14年)の期間に月産150台を製造していた[18]

以後、第二次世界大戦下の日本で「陸王」のみが生産されるようになるまでには、「陸王」の他に「アサヒ号」「JAC号[注釈 19]」「SSD号[注釈 20]」「あいこく号[注釈 21]」「キャブトン[注釈 22]」「リツリン号[注釈 23]」「くろがね号[注釈 24]」「メグロ号[注釈 25]」などが存在していた[18]

戦況の長期化、悪化によってオートバイ産業は軍需品の製造に転換せねばならなくなり、陸王内燃機でのみがオートバイを製造していた。同社は三共の系列企業で、1931年(昭和6年)にハーレー・ダビッドソンの輸入販売業として設立された[18]。その後、国産化の流れの中で同社の専務を務めた永井信二郎は生産体制を確立するためにアメリカ、ミルウォーキーのハーレー・ダビッドソン工場へ設備調達のため渡米する。本国アメリカからエンジニアを招聘し、100名程度の従業員や機械設備を整えて、1935年(昭和10年)に自社生産のハーレー・ダビッドソンが品川工場で初めて完成した[18]。陸王の名称の由来は永井信二郎の母校である慶應義塾大学の『若き血』のフレーズ「陸の王者」にちなんでつけられたという[18]。しかし次第に十分な資材確保も難しくなり、1937年(昭和12年)頃から製造を行っていた帝国陸軍用の九七式側車付自動二輪車1943年(昭和18年)には月産90台程度製造されていたが、戦争末期には月産50台に減少した[18]

第二次世界大戦終戦後、日本の軍用機軍用車を製造していた企業がアメリカ軍を中心として連合国軍の占領政策を実行したGHQ(SCAP)によって航空機や自動車の製造を禁止され、所属していた技術者達はその技術を活かす場を求めていた[26]一式戦「隼」四式戦「疾風」といった陸軍機で知られる中島飛行機を源流に持ち、戦後に解体、平和産業へ転換させられた富士産業(後のSUBARU)もその1つであったが、1945年(昭和20年)当時、日本に駐留していた連合軍が持ち込んだアメリカのパウエル式やイギリスのコルギ式といったスクーターの簡素な車体が、材料が十分に確保できない状況で作れる製品として富士産業の技術者関心を集め、規制の緩かったオートバイ業界へ技術者が流入し始めたためである[26]。しかしながら敗戦後間もない日本国内では開発は始まったものの材料不足でさらに材料調達自体がほぼ不可能に近いという状況は非常に深刻で、一時は海軍機である「銀河」の尾輪をタイヤに転用したり、ピストン周辺はダットサンの部品を流用したりするなど、新規に部品すら製造できない状況の中で試作品は作られた[26]1946年(昭和21年)の夏に試作機が完成し、同年11月からラビットスクーターS1として発売された。定価は11,000円程度であった。これは交通の不便な終戦直後にあって歓迎され、月産300台から500台程度生産されることとなった[26]

それから半年後、旧三菱重工業系の中日本重工(実質後の三菱自工[注釈 26])はアメリカのサルスベリー式をモデルにシルバーピジョンを開発し、これら2台が終戦直後の日本製スクーターの双璧となった[26]


次ページ
記事の検索
おまかせリスト
▼オプションを表示
ブックマーク登録
mixiチェック!
Twitterに投稿
オプション/リンク一覧
話題のニュース
列車運行情報
暇つぶしWikipedia

Size:163 KB
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
担当:undef