オートバイ
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オートバイから転用された諸々の技術[注釈 14]は、それを下地として飛行機の分野で技術革新が行われ、以降レシプロエンジン開発の花形は動力をジェットエンジンに移行するまで飛行機であり、逆輸入されるような形でオートバイに再転用されることとなった[19]

それまでのオートバイは、アメリカのブリッグス・ストラットン社が開発したスミスモーター[注釈 15]という自転車に装着する動力装置のような機構が簡便さから一定の評価を得ていたが、車軸に対して推進装置がずれていることや部品精度が低いために、速度が上がるとハンドルが揺れだすといった状況であった。始動を容易にするために圧力を開放するデコンプレッサーが装着されているなど、快適性に対する試行錯誤はみられるものの、始動方式は押しがけクラッチ変速機フロントブレーキも装着されていなかったため[注釈 16]、運用や転倒せずに走行するには乗り手に高い技術が要求された。また、キャブレターは布にガソリンを染み込ませ、そこを空気が通ることによって混合気を作るといった非常に原始的なものであった[19]。加えて、メーカーによる独自規格が乱立し、操縦方法の違いが顕著であった。代表的な例ではアメリカのハーレーとインディアンの間では同じ動作をするための装置が左右逆に装着されているなど、他社製品を操作するためにはまた新たな技能習得が必要であった[18]

その後の第二次世界大戦(1939年-1945年)では、戦闘に従事する各国軍隊において、サイドカーを付けて将校の移動手段や、偵察部隊などの機動部隊の装備としてオートバイは利用された。

第二次世界大戦後には日本で航空機などを製造していたメーカーがオートバイ製造に参入、コストパフォーマンスの高い製品を輸出し市場を拡大した。特にアジア圏では商用の低価格モデルを中心にシェアが高い。ヨーロッパの伝統的なブランドは趣味性の高い高級路線にシフトすることで棲み分けを図ったが、日本メーカーが高性能モデルを発売したことで競合するようになった。

中国では国内に多数のメーカーが存在し、庶民の乗り物として自転車と共にオートバイが利用されていたが、近年では環境規制の強化により排出規制が厳格化され、ガソリンエンジンを搭載したオートバイの保有・乗り入れが禁止された都市「禁限摩」の指定が増えている[20]上海市などの大都市ではガソリンエンジンを搭載するオートバイはナンバーの発行に450万円という懲罰的な金額が課されることや、電動オートバイや電動自転車のレンタル・充電設備が各所に設置され利便性が高いため、都市部では電動化が事実上完了している[21]

韓国の都市部では道路事情や運賃の低いバス路線が発達しているため、市民の移動手段としてはほとんど用いられないが、普通自動車の運転免許で125ccまで運転できることから、都市部ではアルバイト配達員がオートバイでデリバリーする文化(ペダル文化)が発達しており、日本製のオートバイが多く利用されている[22]。国内メーカーはデーリムモーターS&Tモータースの2社が大手であるが、日本を始めとした輸入車の方がシェアが高い。

2020年代には世界的な環境規制の強化により電気自動車が普及すると予想されており、オートバイでも電動化が進んでいる[23][24]
日本のオートバイの歴史三共によって生産されていた「陸王富士産業が戦後まもなく生産したラビットスクーターカブF型日本のオートバイが世界に通用することを証明したホンダ・ロードレーサー RC142

日本における最古のオートバイの記録としては、明治維新による近代化が推し進められる中で、1898年明治31年)に紫義彦が組み立て、製作した車輌の写真が残されているが[注釈 17]、明治期にはオートバイは道楽といった認識で、富国強兵の国是の下に国産化の進められた他の産業に比較すると特別な注力がなされることはなかった[18]。そのため、わずかながら人の目に触れるようになりだしたオートバイはほぼ全てが輸入車であり、開発や製造は個人で小規模に行われるにすぎなかった。

1909年(明治42年)に島津楢蔵が初の国産車であるNS号を製造[25]。その後、1910年(明治43年)に山田輪盛館(ドイツのNSU製品の輸入販売)や山口勝蔵店(イギリストライアンフ、アメリカのインディアンの輸入販売)といったオートバイ専門輸入商が創立され、1917年大正6年)に大倉商事がハーレーの輸入を開始した[注釈 18]。その後、島津楢蔵はいったん航空業界に転身し、9気筒回転型空冷80馬力エンジンを帝国飛行協会でのコンテストに出品して1等を受賞するなどの実績を残した[18]三井物産で取締役を勤めた山本条太郎により、その当時の航空事業はもはや個人に運営できる規模で太刀打ちできる産業ではない、といった助言を受けて自動車学校を設立するも、大阪府に総台数200台の時代にあって4年間で300名のエンジニアを輩出するなど迷走し、自動車学校は1922年大正11年)に閉鎖の憂き目にあう[18]。こうした紆余曲折を経た後にオートバイ開発に復帰し、航空業界で培った技術を応用したエーロ・ファースト号を3年後に完成させる。搭載された633cc、4ストロークサイドバルブ単気筒エンジンは6.5ps、最高速度40km/hを実現した[18]。このまま事業化を画策していたが、世界情勢の悪化やニューヨーク株式市場の暴落に端を発する世界恐慌の不況による影響から計画は難航し、1930年昭和5年)には廃業を余儀なくされる[18]


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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