オートノミズム
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語源詳細は「オートノミー」を参照

autonomia/Autonomeの語は二つのギリシア語単語α?το- auto-(self)とν?μο? nomos(law)の合成語であり、「自分で自分に自身の法を与える者」という意味と解されている。ここにおいて「オートノミー」は「独立」という意味ではない。「独立」がコミュニティから分離された閉鎖経済的な生活様式を含意するのに対して、オートノミーは社会の中で各人が各人の規律に基づいて生きることを意味する。 オートノミズムの概念は古代ギリシア人にとっては異質なものであったが、「ポリス(コミュニティ)から離れて生きることができるのは獣または神のみだ」と述べたアリストテレスはこの概念を間接的に支持している。イマニュエル・カント啓蒙を思考のオートノミーとサペレ・アウデー(英語版)(ラテン語の成句 「敢えて賢明であれ」)として定義した。
オートノミスト・マルクス主義の理論

オートノミスト・マルクス主義(オートノミスト・マルクシズム、Autonomist Marxism)は、マルクス主義の他の形態とは異なり、労働者階級が国家、労働組合政党とは独立して資本主義体制の機構に変革を強いる能力があることを強調する。彼らは他のマルクス主義者と比すれば党派的組織にあまり関与せず、代わりに伝統的な組織構造の外部での自己組織化された行動に重点を置く。つまり「ボトムアップ」の理論であり、労働者階級の資本主義への日々の抵抗として欠勤主義(英語版)(absenteeism)、ゆっくりとした仕事、労働現場の自己組織化、破壊活動(sabotage)などの活動に注目する。

他のマルクス主義と同様に階級闘争を最も重要視するが、他のマルクス主義よりも「労働者階級」を幅広く定義し、ホワイトカラーブルーカラーの両方を含む賃金労働者だけでなく、伝統的には労働組合の対象とされていない賃金労働者ではない学生、非雇用者、家政婦なども含める。

マリオ・トロンティ(イタリア語版)、アントニオ・ネグリ、セルジオ・ボロゴナ(イタリア語版)、パオロ・ヴィルノ(イタリア語版)などの初期の理論家は、マルクス主義の労働の概念を超えた「無形」(immaterial)の「社会的労働」(social labour)に注目した。この考えは、現代の社会的富は計算できない集約的な労働によって生産されており、その富の僅かな一部のみが賃金の形で労働者に再配分されている、とする。他のイタリアのオートノミスト、特にマリアローザ・ダラ・コスタやシルヴィア・フェデリーチ(イタリア語版)などのフェミニストは、フェミニズムや資本主義社会に対する非賃金の女性労働の重要性を強調する。オートノミズムを研究しているMichael Ryanは次のように説明している。.mw-parser-output .templatequote{overflow:hidden;margin:1em 0;padding:0 40px}.mw-parser-output .templatequote .templatequotecite{line-height:1.5em;text-align:left;padding-left:1.6em;margin-top:0}運動及び理論としてのオートノミーは、資本主義は非合理なシステムであり計画によって合理化することができるという考えに反対する。むしろ、それだけで共産主義社会を構築できるものとして、労働者の革命的過渡期のてことしての活動を特権化する見方を前提としている。経済は完全に政治的なものとしてとらえられる。というのは、経済関係は階級間の直接的な政治的力関係だからである。そして、政治的変化のイニシアティブを有しているのは、政党のような疎外された政治形態ではなくして、社会的労働に従事する者の経済的カテゴリーである。[7]
イタリアのアウトノミア運動イタリア・アウトノミアの指導的理論家のアントニオ・ネグリ

イタリアのオートノミスト・マルクス主義者はオペライズモ(イタリア語版)(労働者主義)と呼ばれる。これが初めて現れたのは1960年代初頭のことである。初期アウトノミアの出現はフィアットとの合意に達することのできなかったトリノの自動車産業労働者の組合への不満までさかのぼることができる。労働者の組織代表への幻滅、加えてその結果としての暴動(とりわけ1962年トリノでのフィアット労働者の暴動である"fatti di Piazza Statuto")は、労働組合のような伝統的な代表制の埒外の自律的な労働者代表理論の発達における重要な因子となった。

1969年になると、オペライズモのアプローチは2つの異なる集団において活発に行われた。アドリアーノ・ソフリ(イタリア語版)(ローマ・カトリックの文化的マトリクスに大きな影響を与えた)が指導するロッタ・コンティヌア(イタリア語版)(継続闘争)と、アントニオ・ネグリ、フランコ・ピペルノ(イタリア語版)、オレステ・スカルツォーネ(イタリア語版)、ヴァレリオ・モルッチ(イタリア語版)らが指導する労働者の力(イタリア語版)(ポテレ・オペライオ)である。マリオ・カパンナ(イタリア語版)はミラノの学生運動のカリスマ的指導者であり、より古典的なマルクス・レーニン主義的にアプローチした。
影響

ダニーロ・モンタルディ(イタリア語版)による翻訳によって、イタリアのオペライアはアメリカ合衆国のジョンソン=フォレスト潮流(英語版)(ジョンソン派)やフランスの「社会主義か野蛮か」(フランス語版)における過去の活動家の研究に追いつくことができた。ジョンソン=フォレスト潮流は合衆国の自動車産業における労働者階級の生活と闘争について研究し、"The American Worker" (1947年)、"Punching Out" (1952年)、"Union Committeemen and Wildcat Strikes" (1955年)などのパンフレットを出版していた。これらはフランス語に翻訳され「社会主義か野蛮か」に連載された。彼らはまた、労働現場の中、ここでは自動車工場と保険事務所において何が起こっているのかについて調査と著述を始めた。

1961年から1965年にかけて「クアデルニ・ロッシ(クァーデルニ・ロッシ)」誌(イタリア語版)(赤い手帖)、およびその後継誌として1963年から1966年にかけて「クラッセ・オペライア」誌(Classe Operaia; 労働者階級)が刊行され、これらは初期アウトノミアの発展に影響した。主要な執筆者としてラニエロ・パンツィエリ(イタリア語版)、マリオ・トロンティ(イタリア語版)、アントニオ・ネグリらがいる。

海賊放送もまたアウトノミアの拡大の要因の一つであった。ボローニャのラジオ・アリス(イタリア語版)はそのような例の一つである。
直接行動詳細は「鉛の時代 (イタリア)」を参照

1966年のローマ大学のネオ・ファシストによる学生パオロ・ロッシ殺害に端を発するインディアニ・メトロポリタニ(イタリア語版)(大都市のインディアンたち、メトリポリタンのインディアンたち、メトロポリタン・インディアン)を含むイタリアの学生運動は、暴動や占拠、より平和的なものでは個人がサービス、財、公共交通機関、電気、ガス、家賃、食糧費などの支払いを拒否する「自律還元」のような様々な直接行動が取り組まれた。1967・68年冬の大学占拠、フィアットの工場占拠、1968年3月のヴァッレ・ジュリア闘争(イタリア語版)などでは、学生と警官隊との衝突が見られた。

インディアニ・メトロポリタニは1976年から1977年にかけての、鉛の時代と呼ばれる極左抗議運動の中での小党派である。インディアニ・メトロポリタニはいわゆる、運動の「創造的翼」であった。その支持者たちはネイティブアメリカンの出陣化粧のようにフェイスプリントをほどこし、ヒッピーのような服を身にまとっていた。その強調するところのものは"stare insieme"(「共に」)、自発性、そして音楽などの芸術であった。このグループは1977年のLa Sapienza大学占拠の際のローマにおいて活発であった。

1977年3月11日、警官が学生フランシスコ・ロルッソ(イタリア語版)を虐殺したことを受けて、ボローニャにおいて暴動が発生した。

1979年の初め、イタリア政府はアウトノミアを次々に訴追し、アルド・モーロを拉致・殺害した赤い旅団を保護していると非難した。12000人もの極左活動家が拘留された。600人が国外逃亡し、そのうち300人はフランスに、200人が南米に渡った[8]トゥーテ・ビアンケ

トゥーテ・ビアンケ(イタリア語版)(白いつなぎ)はイタリアの過激派社会主義運動で、1994年から2001年にかけて活発であった。活動家たちは、デモ中に警官の攻撃を防ぎ、警官の規制線を押し破り、大梯団の中で相互に身を守るために綿で身を包んだ。トゥーテ・ビアンケの運動は2001年7月の反ジェノヴァ・サミット闘争において頂点を迎え、およそ10000人の抗議者が一つの梯団に集まったが、皮肉にもこれは「白いつなぎを着なくてもいい」と決定された後のことであった。ジェノヴァ闘争ののち、ヤ・バスタ連合(英語版)(もうたくさん連合)が解散し、いくつかのグループはディスオッベディエンティ(Disobbedienti; 不服従者)に糾合された。その哲学は、占拠とスコッターされた自己管理の社会センターの創出、性差別反対、移民の権利および政治亡命を望む難民の擁護、そして通りでのデモでは大きな隊列を組んで歩き、必要であれば警察と衝突するということが含まれていた。

トゥーテ・ビアンケの中心は、1994年のサパティスタ民族解放軍によるチアパスでの反乱の影響を受けた集団の全イタリア的なネットワークであるヤ・バスタ連合(英語版)であった。ヤ・バスタは主にミラノの社会センタ―に起源をもつ。それらの社会センターは、1970年代から1980年代にかけてのアウトノミア運動の中で成長したものであった。トゥーテ・ビアンケには様々に国際的な派生団体が現れた。たとえば、イギリスのWOMBLES(英語版)はその戦略は適用したものの、政治信条は異なっていた。スペインの"Mono Blanco"はトゥーテ・ビアンケのシンボルを好んで使った。北米で最初のトゥーテ・ビアンケの派生組織であるニューヨーク市ヤ・バスタ集団(英語版)は白ではなく黄色のつなぎを着ていた。
フランスのオートノーム運動「フランスにおけるオートノーム運動(フランス語版)」も参照

フランスにおいては、コルネリュウス・カストリアディスが指導するマルクス主義者グループの「社会主義か野蛮か」(フランス語版)派が最初のアウトノミア集団であるといえる。「社会主義か野蛮か」派はアメリカのジョンソン=フォレスト潮流の自動車産業研究に追いつき、次いでランク・アンド・ファイル労働者の闘争、すなわち組合ないし党的指導から自律的な闘争に関する独自の調査に乗り出した。

ジョンソン=フォレスト潮流とほぼ同時期に、「社会主義か野蛮化」派はソ連の共産党政権を官僚的集産主義(英語版)であり社会主義とは縁もゆかりもないと批判していた。哲学者のジャン=フランソワ・リオタールがこの運動の一員であった。

しかし、イタリアのオペライズモ運動の影響は、アントニオ・ネグリに近い経済学者のヤン・ムーリエ・ブータン(フランス語版)による批評誌Materiaux pour l'intervention(1972年―73年)の創刊によりその兆しを見せた。これはのちにカマラード派(1974年―78年)の創立に結実した。ムーリエ・ブータンは他の者たちとともに、フェリックス・ガタリによって設立されたCentre International pour des Nouveaux Espaces de Liberte (CINEL)に参加し、少なくとも300人以上の、テロリストであるとして訴追されフランスに逃亡したイタリア人活動家を支援した。


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