オーソン・ウェルズ
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ロサンゼルス映画批評家協会賞
ドキュメンタリー賞
1993年『オーソン・ウェルズ/イッツ・オール・トゥルー』
生涯功労賞
1978年
AFI賞
生涯功労賞
1975年
アメリカ映画ベスト100(第1位)
1998年市民ケーン
グラミー賞
最優秀スポークン・ワード・アルバム賞
1977年『Great American Document』
1979年市民ケーン
1982年『Donovan's brain』
その他の賞
全米監督協会賞
D・W・グリフィス賞
1983年

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オーソン・ウェルズ(Orson Welles, 1915年5月6日 - 1985年10月10日)は、アメリカ合衆国映画監督脚本家俳優。映画『第三の男』などでの個性的な演技で名優として知られたが、映画監督としても数々の傑作を残した。

とくに25歳で初監督した作品『市民ケーン』は、撮影監督グレッグ・トーランドとともに数多くの斬新な撮影技法を案出したことから、現在でも映画研究の分野できわめて高く評価されている[1][2]

その後も『黒い罠』『上海から来た女』など新しい映画言語を盛り込んだ作品を監督し、全アメリカ映画史を通じて最も重要な映画作家の一人とも呼ばれる[3]

後半生は巨額の製作費を回収するためB級TV番組の監修や脚本執筆に追われ、実現しなかった映画の企画や未完の脚本が数多く残されている[3]
経歴
幼少時代

オーソン・ウェルズは1915年5月6日ウィスコンシン州ケノーシャで生まれた。子供時代の彼は詩、漫画、演劇に才能を発揮する天才児であったが、傍若無人な性格で、周りとの人間関係に問題があった。母は彼が9歳の時に亡くなり、父は発明に没頭するアルコール依存症の奇人で、祖母は神経質でオカルト魔術に耽溺しており、ウェルズとは嫌いあう仲であった。

父は、彼をイリノイ州ウッドストックにある比較的自由な校風のトッド校に通わせた。ここでウェルズは最初の演劇を制作し、俳優として出演した。彼は、登校早々に怪談話で同級生を怖がらせ、手品やほら話を披露した。また、肥満児であったためいじめを受けると、トイレに駆け込んで赤いペンキを顔に塗り、大怪我になった演技をして相手を狼狽させた。これ以降、誰も彼をいじめようとはしなくなった。ハロウィンでは学校を恐怖に陥れ、クリスマスにはキリスト受難劇シェイクスピアの劇を自ら演じた。彼は、この学校で、校長で義理の父親になったロジャー・ヒルの指導を受けた。また、神学者・哲学者チャールズ・ハートショーンの妻だった歌手ドロシー・ハートショーンの講義を受けた。
演劇人の時代

1931年、ウェルズは16歳で、アイルランドダブリンにある有名なゲート劇場で脇役として舞台デビューを果たした。1934年にはアメリカに戻ってラジオドラマのディレクター兼俳優となっており、後にマーキュリー劇場で共演する俳優たちと仕事をした。この年、女優で社交界の名士のヴァージニア・ニコルソンと結婚し、また『The Hearts of Age』という短編映画の共同監督となり、ニコルソンと共演している。

世界恐慌後の大不況が続く1936年、アメリカ政府による演劇人救済と大衆への演劇供給を目的としたプロジェクトである連邦劇場計画(FTP)が始まった。ウェルズは、FTP責任者たちから注目され、21歳でニューヨーク市ハーレム地区でのアフリカ系アメリカ人の俳優・スタッフたちとの演劇制作事業に、演出家として赴任した。


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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