この結果、民族主義運動の出現した時代においてオーストリア=ハンガリーの統治は次第に困難になりつつあった。それにもかかわらず、オーストリア政府はいくつかの部分で融通を利かすべく最善を尽くそうとした。たとえばチスライタニア(オーストリア=ハンガリー帝国におけるオーストリア部分の呼称)における法律と布告 (Reichsgesetzblatt) は8言語で発行され、すべての民族は各自の言語の学校で学ぶことができ、役所でも各々の母語を使用していた。ハンガリー政府は反対にほかの民族のマジャール化を進めている。このため二重帝国の両方の部分に居住している諸民族の願望はほとんど解決させることができなかった。
第一次世界大戦と共和制への移行1910年時点のオーストリア=ハンガリーの言語民族地図
1914年にフランツ・フェルディナント大公がセルビア民族主義者に暗殺される事件が起こる。オーストリア=ハンガリー帝国はセルビアに宣戦布告し、紛争は第一次世界大戦に発展した。
4年以上の戦争を戦ったドイツ、オーストリア=ハンガリー、トルコ、ブルガリアの中央同盟諸国の戦況は1918年後半には決定的に不利になり、異民族の離反が起きて政情も不安となったオーストリア=ハンガリーは11月3日に連合国と休戦条約を結び、事実上の降伏をした。
第一次世界大戦の降伏直後にオーストリア革命が起こり、皇帝カール1世は「国事不関与」を宣言して共和制(ドイツ=オーストリア共和国)に移行し、600年以上にわたったハプスブルク家の統治は終焉を迎えた。
1919年に連合国とのサンジェルマン条約が結ばれ、ハンガリー、チェコスロバキアが独立し、そのほかの領土の多くも周辺国へ割譲させられてオーストリアの領土は帝国時代の4分の1程度になってしまった。300万人のドイツ系住民がチェコスロバキアのズデーテン地方やユーゴスラビア、イタリアなどに分かれて住むことになった[21]。また、ドイツとの合邦も禁じられ、国名もドイツ=オーストリア共和国からオーストリア共和国へ改めさせられた。
戦後、オーストリアは激しいインフレーションに苦しめられた。1922年に経済立て直しのために国際連盟の管理の下での借款が行われ、1925年から1929年には経済はやや上向いてきたがそこへ世界恐慌が起き、1931年にクレディタンシュタルトが倒産した。
ファシズムからアンシュルスへ詳細は「オーストロファシズム」および「ナチス・ドイツ統治下のオーストリア」を参照
1933年、キリスト教社会党のエンゲルベルト・ドルフースによるイタリア・ファシズムに似た独裁体制が確立した(オーストロファシズム)[22][23]。この時期のオーストリアにはキリスト教社会党とオーストリア社会民主党の二大政党があり各々民兵組織を有していた[24]。対立が高まり内戦(2月内乱)となる[22][23][25]。進駐ドイツ軍を歓迎するウィーン市民
内戦に勝利したドルフースは社会民主党を非合法化し[26][25]、翌1934年5月には憲法を改正して権力を固めたが、7月にオーストリア・ナチス(ドイツ語版)のクーデターが起こり暗殺された[27][28]。後継者のクルト・シュシュニックはナチスドイツから独立を守ろうとするが、1938年3月12日、ドイツ軍が侵入して全土を占領し、オーストリア・ナチスが政権を掌握した[29]。3月13日にアンシュルス(合邦)が宣言され、オーストリア出身のアドルフ・ヒトラーが母国をドイツと統一させた。
オーストリアは第三帝国に編入されて独立は失われた。ナチスはオストマルク法を制定してオーストリアをオストマルクとし[29]、1942年にアルペン=ドナウ帝国大管区群と改称している。第三帝国崩壊直前の1945年4月13日、ソ連軍によるウィーン攻勢によってウィーンは陥落した。カール・レンナーがソ連軍の承認を受けて速やかにウィーンに臨時政府を樹立し[30]、4月27日に独立宣言を行い第三帝国からの分離を宣言した。1939年から1945年の死者は26万人[31] 、ホロコーストによるユダヤ人の犠牲者は6万5,000人に上っている[32]。 ドイツと同様にオーストリアもイギリス、フランス、ソ連、アメリカによって分割占領され、オーストリア連合国委員会によって管理された(連合軍軍政期)[33]。1943年のモスクワ宣言のときから予測されていたが、連合国の間ではオーストリアの扱いについて見解の相違があり[30]、ドイツ同様に分断されるおそれがあった。結局、ソ連占領区のウィーンに置かれた社会民主主義者と共産主義者による政権は、レンナーがスターリンの傀儡ではないかとの疑いがあったものの、西側連合国から承認された。これによって西部に別の政権が立てられ国家が分断されることは避けられ、オーストリアはドイツに侵略され連合国によって解放された国として扱われた[34]。 冷戦の影響を受けて数年かかった交渉の末、1955年5月15日、占領4か国とのオーストリア国家条約が締結されて完全な独立を取り戻した。
第二次大戦後