オーストリア
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その結果、ボヘミア王オタカル2世がオーストリア、シュタイアーマルク、ケルンテン各公領の支配権を獲得した[9]。彼の支配は1278年マルヒフェルトの戦い神聖ローマ皇帝ルドルフ1世に敗れて終わった[10]
ハプスブルク家支配の成立1605年ハプスブルク皇帝の紋章

ザルツブルクはザルツブルク大司教領(英語版)(1278年 - 1803年)となり、ザルツブルク大司教フリードリヒ2世・フォン・ヴァルヒェン(ドイツ語版)が領主となった。1290年、アルブレヒト1世がエンス渓谷の所有権と諸権利をめぐってザルツブルク大司教と争い、ルドルフ1世の調停によって自身に有利な条約が結ばれた。翌年7月にルドルフが死んで、アルブレヒト包囲網が編成された。教皇ニコラウス4世の了解を得て、ハンガリー王、ボヘミア王、ニーダーバイエルン公サヴォイア公、ザルツブルク、アクイレイアコンスタンツの聖界諸侯、旧ロンバルディア同盟の諸都市、およびスイス誓約同盟も加わった諸国が大同盟を結成した。選帝侯を味方につけられないアルブレヒトは大同盟から大打撃を受け、フランスを範にとり財政改革を行うことになった。裕福なウィーン市民をフープマイスターなる管財人へ任命し、人手に渡っていた所領をたちまちに回収した。しかしアルブレヒトが1308年に暗殺されてオーストリアは弱くなった。レオポルト1世モルガルテンの戦いに敗れてフランスに接近した[11]

フリードリヒ3世の死後一世紀あまりの間、ハプスブルク家はローマ王位から遠ざかった。しかし、この間にも政争は絶えなかった。1335年、ゲルツ伯家のハインリヒ6世が没し、唯一の女子マルガレーテ・マウルタッシュが伯位を継承したが(チロル女伯)、領土の相続をめぐってルクセンブルク家ヴィッテルスバッハ家ハプスブルク家が介入した。銀山のあるチロルは位置もイタリア政策の拠点となりうる垂涎の的であった。

1358年にハプスブルクはオーストリア大公オーストリア大公国)を称した。1363年、ハプスブルク家のオーストリア公ルドルフ4世は、マルガレーテを退位させて強引にチロル伯領を継承、以後チロル地方はハプスブルク家の統治下に置かれた。14世紀から15世紀にかけて、このようにハプスブルクはオーストリア公領周辺領域を獲得していく。領土の一円化はコンスタンツ公会議でイタリア政策が頓挫してから急務であった。1438年アルブレヒト2世が義父ジギスムントの後継に選ばれた。アルブレヒト2世自身の治世は1年に過ぎなかったが、これ以降、一例を除いて神聖ローマ皇帝はハプスブルク家が独占することになる。

ハプスブルク家は世襲領をはるかに離れた地域にも獲得し始める。1477年フリードリヒ3世の唯一の子であるマクシミリアン大公は跡取りのいないブルゴーニュ公国マリーと結婚してネーデルラントの大半を獲得した[12][13]。彼の子のフィリップ美公カスティーリャアラゴンの王女フアナと結婚した。フアナがのちに王位継承者となったためスペインを得て、さらにその領土のイタリア、アフリカ、新世界をハプスブルク家のものとした[12][13]

1526年モハーチの戦いでハンガリー王ラヨシュ2世が戦死したあと、ボヘミア地域とオスマン帝国が占領していないハンガリーの残りの地域がオーストリアの支配下となった[14]。1529年、第一次ウィーン包囲。オスマン帝国のハンガリーへの拡大により、両帝国はしばしば戦火を交えるようになった(東方問題)。1556年、カール5世が退位してスペイン=ハプスブルク家が枝分かれした。1648年ヴェストファーレン条約が結ばれ、神聖ローマ帝国は形骸化しフランスが勢力を伸張した。
マリア・テレジアと二元主義1683年第二次ウィーン包囲オスマン帝国のヨーロッパ侵略を打ち砕いた18世紀のウィーン

レオポルト1世1657年 - 1705年) の長期の治世では、1683年ウィーン包囲戦の勝利(指揮をしたのはポーランド王ヤン3世[15]に続く一連の戦役(大トルコ戦争1683年 - 1699年)の結果締結された1699年カルロヴィッツ条約により、オーストリアはオスマン帝国領ハンガリー全土・トランシルヴァニア公国スラヴォニアを獲得した。カール6世1711年 - 1740年)は家系の断絶を恐れるあまりに先年に獲得した広大な領土の多くを手放してしまう(王領ハンガリー、en:Principality of Transylvania (1711?1867)、スラヴォニア王国)。カール6世は国事詔書を出して家領不分割とマリア・テレジアにハプスブルク家を相続させる(あまり価値のない)同意を諸国から得る見返りに、領土と権威を明け渡してしまった。

カール6世の死後、諸国はマリア・テレジアの相続に異議を唱え、オーストリア継承戦争1740年 - 1748年)が起き、アーヘンの和約で終結。プロイセン領となったシュレージエンをめぐって再び七年戦争1756年 - 1763年)が勃発。オーストリアに勝利したプロイセンの勃興により、オーストリア=プロシア二元主義が始まる。


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