オーストリア
[Wikipedia|▼Menu]
□記事を途中から表示しています
[最初から表示]

この時期のオーストリアにはキリスト教社会党とオーストリア社会民主党の二大政党があり各々民兵組織を有していた[24]。対立が高まり内戦(2月内乱)となる[22][23][25]進駐ドイツ軍を歓迎するウィーン市民

内戦に勝利したドルフースは社会民主党を非合法化し[26][25]、翌1934年5月には憲法を改正して権力を固めたが、7月にオーストリア・ナチス(ドイツ語版)のクーデターが起こり暗殺された[27][28]。後継者のクルト・シュシュニックナチスドイツから独立を守ろうとするが、1938年3月12日、ドイツ軍が侵入して全土を占領し、オーストリア・ナチスが政権を掌握した[29]3月13日アンシュルス(合邦)が宣言され、オーストリア出身のアドルフ・ヒトラーが母国をドイツと統一させた。

オーストリアは第三帝国に編入されて独立は失われた。ナチスはオストマルク法を制定してオーストリアをオストマルクとし[29]1942年アルペン=ドナウ帝国大管区群と改称している。第三帝国崩壊直前の1945年4月13日ソ連軍によるウィーン攻勢によってウィーンは陥落した。カール・レンナーがソ連軍の承認を受けて速やかにウィーンに臨時政府を樹立し[30]4月27日に独立宣言を行い第三帝国からの分離を宣言した。1939年から1945年の死者は26万人[31]ホロコーストによるユダヤ人の犠牲者は6万5,000人に上っている[32]
第二次大戦後

ドイツと同様にオーストリアもイギリス、フランス、ソ連、アメリカによって分割占領され、オーストリア連合国委員会によって管理された(連合軍軍政期[33]1943年モスクワ宣言のときから予測されていたが、連合国の間ではオーストリアの扱いについて見解の相違があり[30]、ドイツ同様に分断されるおそれがあった。結局、ソ連占領区のウィーンに置かれた社会民主主義者と共産主義者による政権は、レンナーがスターリンの傀儡ではないかとの疑いがあったものの、西側連合国から承認された。これによって西部に別の政権が立てられ国家が分断されることは避けられ、オーストリアはドイツに侵略され連合国によって解放された国として扱われた[34]

冷戦の影響を受けて数年かかった交渉の末、1955年5月15日、占領4か国とのオーストリア国家条約が締結されて完全な独立を取り戻した。1955年10月26日、オーストリアは永世中立を宣言した[35]。1995年に欧州連合へ加盟し[36]、間接的な憲法改正は加えられている[35]インスブルック1964年1976年のオリンピックを開催している

第二共和国の政治システムは1945年に再導入された1920年および1929年の憲法に基づいている。オーストリアの政治体制はプロポルツ(比例配分主義:Proporz)に特徴づけられる。これは政治的に重要なポストは社会党国民党の党員に平等に分配されるというものである[37]。義務的な党員資格を持つ利益団体の「会議」(労働者、事業者、農民)の重要性が増し、立法過程に関与するという特徴がある[38]。1945年以降、単独政権は1966年 - 1970年(国民党)と1970年 - 1983年(社会党)のみで、ほかの期間は大連立(国民党と社会党)もしくは小連立(二大政党のいずれかと小党)のいずれかになっている。

1970年 - 1983年の社会党政権における経済政策はおおむね自由化を進める方向で動いた。このような社会党政権のときに国連事務総長をつとめてきたクルト・ヴァルトハイムが、1986年に大統領となった。
政治詳細は「オーストリアの政治(英語版)」を参照

同国の政体は連邦共和制となっている。
行政2021年12月6日より首相を務めているカール・ネーハマー

国家元首連邦大統領(Bundesprasident)は国民の直接選挙で選ばれる。任期は6年。大統領就任宣誓式は連邦会議(Bundesversammlung)で行われる。

連邦政府の首班は連邦首相(Bundeskanzler)。連邦政府(Bundesregierung)は国民議会における内閣不信任案の可決か、自発的な辞任、総選挙での敗北でしか交代することはない。
立法オーストリア国会議事堂

議会は4年毎に国民から選挙で選ばれる183議席の国民議会(Nationalrat)と各州議会から送られる62議席の連邦議会(Bundesrat)から成る二院制の議会制民主主義国家。国民に選挙で選ばれる国民議会の議決は連邦議会のそれに優先する。連邦議会は州に関連する法案にしか拒否権を行使できない。

連邦会議は非常設の連邦機関で、国民議会ならびに連邦議会の議員を構成員とし、大統領宣誓式のほかには、任期満了前の大統領の罷免の国民投票の実施、大統領への刑事訴追の承認、宣戦布告の決定、大統領を憲法裁判所へ告発する承認の権限がある。
政党「オーストリアの政党(英語版)」を参照

政党には、中道右派のオーストリア国民党(OVP)・中道左派のオーストリア社会民主党(SPO、旧オーストリア社会党、1945 - 1991)・極右のオーストリア自由党(FPO)・同党から分かれて成立したオーストリア未来同盟(BZO、自由党の主要議員はこちらに移動した)・環境保護を掲げる左派の緑の党・左翼のオーストリア共産党がある。

2006年の国民議会選挙で社会民主党が第1党となったため、2007年まで7年間続いた中道右派・オーストリア国民党と極右(自由党→オーストリア未来同盟)の連立政権が解消され、再び中道左派・社会民主党と国民党の大連立に移行した。2008年7月に国民党が連立解消を決め、9月に国民議会選挙が実施された。その結果、社会民主党と国民党の第1党・第2党の関係は変わらなかったものの、両党ともに議席をこの選挙で躍進した極右の自由党と未来同盟に奪われる形となった。その後、およそ2か月にわたる協議を経て、社会民主党と国民党は再び大連立を組むこととなった。中道右派、中道左派、極右は第一共和国時代のキリスト教社会党オーストリア社会民主労働党・ドイツ民族主義派(諸政党…「農民同盟」、「大ドイツ人党」、「護国団」などの連合体)の3党に由来しており、1世紀近くにわたって3派共立の政党スタイルが確立していた。


次ページ
記事の検索
おまかせリスト
▼オプションを表示
ブックマーク登録
mixiチェック!
Twitterに投稿
オプション/リンク一覧
話題のニュース
列車運行情報
暇つぶしWikipedia

Size:203 KB
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
担当:undef