オーストリア
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1477年フリードリヒ3世の唯一の子であるマクシミリアン大公は跡取りのいないブルゴーニュ公国マリーと結婚してネーデルラントの大半を獲得した[12][13]。彼の子のフィリップ美公カスティーリャアラゴンの王女フアナと結婚した。フアナがのちに王位継承者となったためスペインを得て、さらにその領土のイタリア、アフリカ、新世界をハプスブルク家のものとした[12][13]

1526年モハーチの戦いでハンガリー王ラヨシュ2世が戦死したあと、ボヘミア地域とオスマン帝国が占領していないハンガリーの残りの地域がオーストリアの支配下となった[14]。1529年、第一次ウィーン包囲。オスマン帝国のハンガリーへの拡大により、両帝国はしばしば戦火を交えるようになった(東方問題)。1556年、カール5世が退位してスペイン=ハプスブルク家が枝分かれした。1648年ヴェストファーレン条約が結ばれ、神聖ローマ帝国は形骸化しフランスが勢力を伸張した。
マリア・テレジアと二元主義1683年第二次ウィーン包囲オスマン帝国のヨーロッパ侵略を打ち砕いた18世紀のウィーン

レオポルト1世1657年 - 1705年) の長期の治世では、1683年ウィーン包囲戦の勝利(指揮をしたのはポーランド王ヤン3世[15]に続く一連の戦役(大トルコ戦争1683年 - 1699年)の結果締結された1699年カルロヴィッツ条約により、オーストリアはオスマン帝国領ハンガリー全土・トランシルヴァニア公国スラヴォニアを獲得した。カール6世1711年 - 1740年)は家系の断絶を恐れるあまりに先年に獲得した広大な領土の多くを手放してしまう(王領ハンガリー、en:Principality of Transylvania (1711?1867)、スラヴォニア王国)。カール6世は国事詔書を出して家領不分割とマリア・テレジアにハプスブルク家を相続させる(あまり価値のない)同意を諸国から得る見返りに、領土と権威を明け渡してしまった。

カール6世の死後、諸国はマリア・テレジアの相続に異議を唱え、オーストリア継承戦争1740年 - 1748年)が起き、アーヘンの和約で終結。プロイセン領となったシュレージエンをめぐって再び七年戦争1756年 - 1763年)が勃発。オーストリアに勝利したプロイセンの勃興により、オーストリア=プロシア二元主義が始まる。オーストリアはプロイセン、ロシアとともに第1回および第3回のポーランド分割1772年1795年)に加わった。
神聖ローマ帝国の解体と二重帝国ジャン・バティスト・イザベイ作「ウィーン会議」(1819年

フランス革命が起こるとオーストリアはフランスと戦争になったが、幾多の会戦でナポレオンに敗退し、形骸化していた神聖ローマ帝国は1806年に消滅した。この2年前の[16]1804年オーストリア帝国が宣言されている。1814年、オーストリアは他の諸国とともにフランスへ侵攻してナポレオン戦争を終わらせた。1815年ウィーン会議が開催され、オーストリアはヨーロッパ大陸における4つの列強国のひとつと認められた(ウィーン体制)。同年、オーストリアを盟主とするドイツ連邦が作られる。

未解決の社会的、政治的、そして国家的紛争のためにドイツは統一国家を目指した[17]1848年革命に揺れ動かされた。結局のところ、ドイツ統一大ドイツか、大オーストリアか、オーストリアを除いたドイツ連邦のいずれかに絞られる。オーストリアにはドイツ語圏の領土を手放す意思はなく、そのため1849年フランクフルト国民議会がプロイセン王フリードリヒ・ヴィルヘルム4世へドイツ皇帝の称号を贈ったものの拒否されてしまった。1864年、オーストリアとプロイセンは連合してデンマークと戦い、シュレースヴィヒ公国ホルシュタイン公国をデンマークから分離させた(第二次シュレースヴィヒ=ホルシュタイン戦争)。しかしオーストリアとドイツは両公国の管理問題で対立し、1866年普墺戦争を開戦する。ケーニヒグレーツの戦い[17]で敗れたオーストリアはドイツ連邦から脱退し、以後、ドイツ本土の政治に関与することはなくなった[18][19]

1867年のオーストリアとハンガリーの妥協(アウスグライヒ)により、フランツ・ヨーゼフ1世を君主に戴くオーストリア帝国とハンガリー王国の二重帝国が成立した[20]。オーストリア=ハンガリーはスラヴ人ポーランド人ウクライナ人チェコ人スロバキア人セルビア人クロアチア人、さらにはイタリア人ルーマニア人の大きなコミュニティまでもを支配する多民族帝国であった。

この結果、民族主義運動の出現した時代においてオーストリア=ハンガリーの統治は次第に困難になりつつあった。それにもかかわらず、オーストリア政府はいくつかの部分で融通を利かすべく最善を尽くそうとした。たとえばチスライタニア(オーストリア=ハンガリー帝国におけるオーストリア部分の呼称)における法律と布告 (Reichsgesetzblatt) は8言語で発行され、すべての民族は各自の言語の学校で学ぶことができ、役所でも各々の母語を使用していた。


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