オーストリア
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現在のオーストリアの行政区画では、かつてのオーストリア大公領は上オーストリア州下オーストリア州に分割継承されている。

ドイツ語のエスターライヒのreich(ライヒ)はしばしば「帝国」と日本語訳されるが、フランスのドイツ語名が現在でもFrankreich(フランクライヒ)であるように、厳密には「帝国」という意味ではない。「reich」には語源的に王国、または政治体制を問わず単に国、(特定の)世界、領域、(動植物の)界という意味が含まれている。

なお隣国のチェコ語ではRakousko / Rakuskoと呼ぶが、これは国境の一角の地名ラープス・アン・デア・ターヤ(ドイツ語版)に由来している。
オーストリア家(ハプスブルク家)との関係

オーストリアを統治してきたハプスブルク家およびハプスブルク=ロートリンゲン家は「オーストリア家(: Haus Osterreich, 西: Casa de Austria, : Maison d'Autriche, : House of Austria)」とも呼ばれ、同家の成員はハプスブルク、ハプスブルク=ロートリンゲンの家名の代わりに「オーストリアの」を表す各国の言語で呼ばれる(e.g. Marie-Antoinette d'Autriche、マリー=アントワネット・ドートリシュ)。「オーストリア家」にはスペイン・ハプスブルク家も含まれることがあり、たとえば、フランスルイ14世の王妃マリー・テレーズ・ドートリッシュ(スペイン語:マリア・テレサ・デ・アウストリア)はフランス語、スペイン語でそれぞれ「オーストリアの」とあって、スペイン・ハプスブルク家の王女である。日本語版Wikipediaでは、ハプスブルク家がドイツ系の家系であることから、記事名にはドイツ語の「フォン・エスターライヒ」(e.g. カール・ルートヴィヒ・フォン・エスターライヒ)を使用している。
オーストラリアとの混同

オーストリアはオーストラリアと間違えられることがある。「オーストリア」はドイツ語 Osterreich「東の国; オーストリア」の Oster-「東」を同源のラテン語 auster-「南」で置き換えた呼び方であり、「オーストラリア」はラテン語 terra australis「南の地」に由来する。すなわち「オーストリア」と「オーストラリア」は共にラテン語 auster「南」に由来する。

日本では、オーストリア大使館オーストラリア大使館を間違える人もおり、東京都港区元麻布のオーストリア大使館には、同じく港区三田の「オーストラリア大使館」への地図が掲げられている[2]

2005年日本国際博覧会(愛知万博)のオーストリア・パビリオンで配布された冊子では、日本人にオーストラリアとしばしば混同されることを取り上げ、オーストリアを「オースア」、オーストラリアを「オースリア」と覚えるように呼びかけている。

両国名の混同は日本だけではなく英語圏、ロシア語圏、トルコ語圏など多くの言語で見られ、聞き取りにくい場合は「ヨーロッパの」を表す形容詞が付け加えられる場合もある。しばしばジョークなどに登場し、オーストリアの土産物屋などでは、黄色い菱形にカンガルーシルエットを黒く描いた「カンガルーに注意」を意味するオーストラリアの道路標識に、「NO KANGAROOS IN AUSTRIA(オーストリアにカンガルーはいない)」と書き加えたデザインのTシャツなどが売られている。フランス語(オーストラリア: Australie /オストラリ/, オーストリア: Autriche /オトリシュ/)やチェコ語(オーストラリア: Australie, オーストリア: Rakousko)のように、両国を問題なく区別できる言語もある。
オーストリー表記

2006年10月に駐日オーストリア大使館商務部は、オーストラリアとの混同を防ぐため、国名の日本語表記を「オーストリア」から「オーストリー」に変更すると発表した[3]。オーストリーという表記は、19世紀から1945年まで使われていた「オウストリ」という表記に基づいているとされた。

発表は大使館の一部局である商務部によるものだったが、署名はペーター・モーザー大使(当時)とエルンスト・ラーシャン商務参事官(商務部の長)の連名(肩書きはすでに「駐日オーストリー大使」「駐日オーストリー大使館商務参事官」だった)で、大使館および商務部で現在変更中だとされ、全面的な変更を思わせるものだった。

しかし2006年11月、大使は、国名表記を決定する裁量は日本国にあり、日本国外務省への国名変更要請はしていないため、公式な日本語表記はオーストリアのままであると発表した[4]。ただし、オーストリーという表記が広まることにより、オーストラリアと混同されることが少なくなることを願っているとされた。

その後、大使館商務部以外では、大使館、日本の官公庁マスメディアなどに「オーストリー」を使う動きは見られない。たとえば、2007年5月4日の「朝日新聞」の記事では、同国を「オーストリア」と表記している[5]

大使館商務部の公式サイトは、しばらくは一貫して「オーストリー」を使っていた。しかし、2007年のサイト移転・リニューアルと前後して(正確な時期は不明)、大使館商務部のサイトでも基本的に「オーストリア」を使うようになった。「オーストリー」については、わが国の日本語名はオーストリア共和国であると断ったうえで

オーストリーの使用はそれぞれの企業の判断にゆだねる

マーケティングで生産国が重要な企業にはオーストリーの使用を提案する

「オーストリーワイン」がその成功例である

などと述べるにとどまっている[6]

日本では雑誌『軍事研究』がオーストリーの表記を一部で用いている。
歴史詳細は「オーストリアの歴史」を参照
オーストリアの成立

ローマ帝国以前の時代、現在オーストリアのある中央ヨーロッパの地域にはさまざまなケルト人が住んでいた。やがて、ケルト人のノリクム王国はローマ帝国に併合され属州となった。ローマ帝国の衰退後、この地域はバヴァリア人スラブ人アヴァールの侵略を受けた[7]。スラブ系カランタニア族はアルプス山脈へ移住し、オーストリアの東部と中部を占めるカランタニア公国658年 - 828年)を建国した。788年シャルルマーニュがこの地域を征服し、植民を奨励してキリスト教を広めた[7]東フランク王国の一部だった現在のオーストリア一帯の中心地域は976年バーベンベルク家のリウトポルトに与えられ、オーストリア辺境伯領(marchia Orientalis)となった[8]。オーストリアの名称が初めて現れるのは996年でOstarrichi(東の国)と記され、バーベンベルク辺境伯領を表した[8]

1156年、"Privilegium Minus"で知られる調停案により、オーストリアは公領に昇格した。1192年、バーベンベルク家はシュタイアーマルク公領を獲得する。1230年フリードリヒ2世(在位:1230年 - 1246年)が即位。フリードリヒは近隣諸国にしばしば外征を行い、財政の悪化を重税でまかなった。神聖ローマ帝国フリードリヒ2世とも対立。1241年モンゴル帝国ハンガリー王国に侵入(モヒの戦い)すると、その領土を奪い取った。1246年ライタ川の戦いでフリードリヒ2世が敗死したことによりバーベンベルク家は断絶[9]。その結果、ボヘミア王オタカル2世がオーストリア、シュタイアーマルク、ケルンテン各公領の支配権を獲得した[9]。彼の支配は1278年マルヒフェルトの戦い神聖ローマ皇帝ルドルフ1世に敗れて終わった[10]


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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