オーストリア=ハンガリー帝国
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ニコバル諸島ナツナ諸島アナンバス諸島及びソロモン諸島(計画のみ[7]

文化詳細は「世紀末ウィーン」を参照

帝国の末期は、文化の終焉期ではなかった。立派な帝立の劇場や美術・音楽などの学校を有し、文化が振興されていた。その上、文化人だけでなく有能な学者も輩出しており、国勢の衰退傾向を思わせない文化・学問の花を咲かせていた。ことに音楽・美術の点では、当時のヨーロッパの中心的存在であった。画家志望だった若きヒトラーウィーンの帝立美術学校に入学しようとやって来たのもこの時期である。
作曲家

グスタフ・マーラー

アントン・ブルックナー

ヨハネス・ブラームス - 生まれはドイツハンブルクだが、活動の拠点はウィーン

ヨハン・シュトラウス一家

フーゴー・ヴォルフ

エーリヒ・ヴォルフガング・コルンゴルト

アルノルト・シェーンベルク

アントニン・ドヴォルザーク

フランツ・レハール - ハンガリー在住ドイツ人として生まれ、チェコで学び、バルカン音楽にも精通し、ウィーンで活躍し、最後はベルリンを本拠とし、ナチスの庇護も受けたという、ハプスブルク帝国の申し子のような人物である。

フランツ・リスト

学者

ジークムント・フロイト

アルフレッド・アドラー

ルートヴィヒ・ウィトゲンシュタイン

カール・ポパー

グレゴール・ヨハン・メンデル

カール・ラントシュタイナー

エルヴィン・シュレーディンガー

ルートヴィヒ・ボルツマン

エルンスト・マッハ

クルト・ゲーデル

ジョン・フォン・ノイマン

カール・メンガー

ヨーゼフ・シュンペーター

画家

グスタフ・クリムト

オスカー・ココシュカ

エゴン・シーレ

軍事

この節の加筆が望まれています。

アウスグライヒ法以降、オーストリア=ハンガリー帝国は外交・財政・軍事を共通業務とするため、国土全体の防衛を目的とした共通陸軍が設置された。しかしハンガリー側は自治国家の象徴として独自の国防軍の設置を希望し、オーストリア側にも独自の国防軍を設置する事を条件に、互いの政府管轄下のオーストリア国防軍(ラントヴェア)とハンガリー国防軍(ホンヴェート)が設置された。[8]
構成

兵種は歩兵・騎兵・砲兵・工術隊・衛生隊・輜重隊の6つで構成されていた。[9]詳細は「オーストリア=ハンガリー帝国軍(英語版)」を参照
略年表

1867年 - ハンガリーとアウスグライヒ(妥協)。オーストリア=ハンガリー二重帝国成立[10]

1869年 - 日墺修好通商航海条約締結、日本との国交が結ばれる[11]

1873年 - 6月、三帝同盟成立[12]

1878年 - 6月13日ベルリン列国会議に参加。ベルリン条約で、ボスニアヘルツェゴヴィナの行政権を得る[13]

1879年 - ドイツ帝国と同盟[14]

1881年 - 6月、三帝協商成立[15]

1882年 - 5月、三国同盟成立[16]

1887年 - 6月、独露再保障条約[17]。オーストリア、三帝協商の更新を受けず[15]

1897年 - 最初の普通選挙による帝国議会選挙[18]バデーニ言語令によるドイツ系・チェコ系の対立で国政が混乱[18]

1900年 - 清国義和団の乱が発生したため、列強国連合として派兵を行う[19]

1903年 - 6月、清国天津市市域の一部を租界地として獲得[20]

1907年 - 男子普通選挙法成立[21]

1908年 - 10月、ボスニア、ヘルツェゴヴィナの併合を宣言[22]

1912年 - 第一次バルカン戦争。この時、セルビア王国の力を抑制すべくオスマン帝国を支援。終戦後はセルビア占領地域のアルバニアの建国を支援。

1914年

6月28日 - オーストリア大公フランツ・フェルディナント夫妻、サラエヴォで暗殺される(サラエボ事件[23]


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