オーストリア=ハンガリー帝国
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19世紀後半オーストリア=ハンガリーの産業にフランス資本が主役を演じていたのに対し、普仏戦争ドイツ帝国資本の比重が漸次高まった[4]。1901年、二重帝国における外資総額において、フランス資本が30.3%を占めたのに対し、ドイツ資本は49%にも達したのである[5]
サラエボ事件

1908年オスマン帝国青年トルコ人革命が起き、その混乱に乗じてオーストリアはボスニアヘルツェゴヴィナ両州を併合した。ここにはセルビア人が多く、南のセルビア王国への帰属を望む人々が多かった。またムスリムも多く、彼らはオスマン帝国への帰属を望み、一方カトリック信者はオーストリアへの帰属を望んでいた。そうした民族だけでなく宗教的にも複雑な地域を無理やり併合したオーストリアへの反感があがるのも当然のことだった。その後、2度のバルカン戦争を経て、バルカン半島は「汎ゲルマン主義」と「大セルビア主義」、それに加えて「汎スラヴ主義」が角逐し、個々の民族間でも対立が激化して「ヨーロッパの火薬庫」の様相を深めていった。

1914年6月28日、皇位継承者フランツ・フェルディナント大公は妻ゾフィーとともにボスニアの州都サラエヴォを軍の閲兵のために訪れていた。オープンカーでパレードしていたところに、「青年ボスニア(英語版) (Mlada Bosna, ムラダ・ボスナ)」のボスニア出身のボスニア系セルビア人(ボスニア語版)で民族主義者のテロリスト、プリンチプが、この皇位継承者夫妻を銃撃した。2人は奇しくも結婚記念日のこの日に暗殺された。これを「サラエボ事件」といい、ヨーロッパ中に戦乱を告げる狼煙となった。オーストリア軍部はこれを口実にセルビアを討つことを叫んだ。国民は最初は大公暗殺に関しては冷めていたが、貴賤結婚だった大公夫妻の葬儀は簡素に行われ、これが市民の同情を誘い、「セルビア討つべし」の声が高まった。
第一次世界大戦の勃発

オーストリア側は、7月24日期限付きの最後通牒をセルビア政府に突きつけた。セルビア側は一部保留の回答をし、オーストリア側はこれを不服としてセルビアと開戦した。ドイツがロシアに圧力をかけ、動きを封じるはずだったが、ロシアはセルビア側につきオーストリアと開戦した。続いてドイツもロシアと戦争状態に入り、ドイツと三国同盟関係にあるオーストリアも遅れてロシアに宣戦。ロシアと三国協商関係にあったイギリスフランスも相次いで同盟側に宣戦し、ヨーロッパ全土を巻き込んだ第一次世界大戦が勃発した。

開戦当初、どこの国も3か月以内で終了すると予想していた。当初はオーストリア=ハンガリー帝国内の諸民族も政府を支持して戦った。しかし、予想に反し戦争は長期に及んだ。初戦で小国セルビアに敗北したオーストリア軍は、軍事力の弱さを露呈した。多民族国家ゆえに軍の近代化に遅れを取っており、軍内部で使用される言語さえも統一されていなかった。そのため、翌年からは同盟国のドイツ帝国の支援に依存する状況に陥った。

1916年には、68年間帝国に君臨してきた皇帝フランツ・ヨーゼフ1世が死去し、国内に動揺が走った。さらに1917年にはアメリカが協商側で参戦し、連合国(協商のアメリカ参戦後の名称)は高らかに「民主主義と封建主義の戦い」を戦争目的として宣伝した。同年11月には、ロシアで十月革命が起き、「パンと平和」を掲げた。その影響で、帝国内では長い戦争の疲れもあいまって厭戦ムードが高まった。帝国は「民主的連邦制」へ向けた国内改革を迫られた。しかし、皇帝カール1世は理解を示したが、ドイツ人保守派の反抗と諸民族の歩調のずれで、改革は進まなかった。
ハプスブルク帝国崩壊詳細は「オーストリア革命」を参照

そのような中、マニフェストどおりロシアのボリシェヴィキ政府(レーニン政府)はドイツと単独講和し、ブレスト=リトフスク条約を結んで戦線を離脱した。同盟側が西部戦線で攻勢を強めるのは必至だった。連合国は極秘にオーストリア=ハンガリー帝国と単独講和を結ぼうとしたが、ドイツに発覚して失敗した。オーストリア側から連合国に講和を持ち込むも、フランスがこれを公にして失敗し、ドイツとの間にも溝ができてしまうありさまだった。

そんな中、シベリアチェコスロヴァキア軍団(チェコ軍団)の活躍があった。その救出目的にシベリア干渉の名目も立ち、連合国にとってチェコスロヴァキア軍団の活躍は目覚しかった。そこでチェコ人指導者トマーシュ・マサリクは、しきりにチェコスロヴァキア独立を連合国側に持ちかけ、連合国はマサリクの「チェコスロヴァキア国民会議」を臨時政府として承認した。当初、オーストリア=ハンガリー帝国の解体を戦争目的としていなかった連合国は、それをあっさり踏み越えた。これが端緒となり、帝国内の諸民族は次々と独立を宣言した。盟邦ハンガリーも完全分離独立を宣言した。

皇帝カール1世はこれをつなぎとめようとしたが果たせず、1918年秋に「国事不関与」を宣言して国外へ亡命した。ここに650年間、中欧に君臨したハプスブルク家の帝国、オーストリア=ハンガリー帝国はもろくも崩壊した。しかし、その継承諸国の辿った歴史は、いずれも悲惨なものであった。ハプスブルク王朝が滅亡しなければ、中欧の諸国はこれほど永い苦難の歴史を経験しなくともすんだであろう[6]。 ? イギリス首相ウィンストン・チャーチル
評価帝国の言語分布(1910年時点)
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普墺戦争に完敗したオーストリア帝国の19世紀後半から20世紀前半にかけての世界的な評価は、「諸民族の牢獄」「遅れた封建体制国家」などとあまり良くなく、民族自決理念による各民族の自立は、現実には連合国にとっての戦争の正当化のための宣伝材料ともなった。中でも「ポーランド復活」は、連合国にとって戦争目的の本丸と同義であり、これを果たしたことを連合国は大きく宣伝した。

しかし戦後処理にはずさんな点が多くあり、大国の思惑が絡み合って領土確定が行われたため、東欧に平和と安定が訪れることはなかった。戦争目的の筆頭だったポーランドは領土問題に不満を持ち、ソビエト連邦チェコスロバキアと戦争状態に陥り、かつてのオーストリアの盟邦ハンガリーも、戦争責任を問われて領土が大幅に縮小されたため不満がくすぶり続けた。中欧・東欧の混乱は、「ヨーロッパの火薬庫」といわれていた第一次世界大戦以前となんら変わらなかった。またオーストリアでは、基幹産業がなくなり深刻な不況に陥った。更に戦前では国外からの投資が行われ、経済は非常に好調だったがそれがすべてなくなってしまったために多くの混乱がおこった。

やがてドイツでアドルフ・ヒトラーが台頭すると、かつて連合国側が掲げた「民族自決」を逆手に取られ、中欧・東欧諸国に散らばっているドイツ系人の保護を名目として次々と攻略された。中欧・東欧の小国は各個撃破され、かつての帝国諸民族の血みどろの抗争が繰り広げられた。そして第二次世界大戦後、中欧・東欧の諸国の大半はソビエト連邦衛星国として東西冷戦の最前線となった。結局、諸民族が混在して民族ごとの領域を確定できない中欧・東欧で、無理やり「民族自決」が適用されたために、さらなる混乱が生まれたのである。ハプスブルク帝国を崩壊させるのはご自由ですが、これは多民族を統治するモデル国家であり、一度こわしたら二度ともとに戻ることはないでしょう。後には混乱が残るだけです。そのことをお忘れなく[6]


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