オーストリア=ハンガリー帝国
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10月 - 膠着したイゾンツォ戦線にドイツ軍が参戦、カポレットの戦いでイタリア王国に勝利を収める[26]


1918年

3月3日 - ロシア革命政府、同盟軍と単独講和を行い戦争を離脱。

4月 - 帝国内の諸民族による自治要求(ローマ会議)。

6月15日 - イゾンツォ戦線で単独攻勢を開始、ピアーヴェ川の戦いでイタリア王国軍に敗北する。

10月 - ブダペスト暴動起こる。チェコスロヴァキア共和国独立を宣言[27]、以後帝国内で独立相次ぐ。

10月24日 - ヴィットリオ・ヴェネトの戦いで敗北。退却中に主力軍が降伏し、主戦力を喪失。

10月27日 - 連合国各国に対し降伏を宣言。

11月3日 - イタリア王国とヴィラ・ジュスティ休戦協定を結び停戦、降伏[28]

11月11日 - カール1世、「国事不関与」を宣言してシェーンブルン宮殿を退去。


日本との関係新橋駅に到着したフランツ・フェルディナントを描いた日本の錦絵楳堂小国政画)

1873年(明治6年)6月に岩倉使節団がオーストリア=ハンガリー帝国を訪問しており、その当時のオーストリア各州の地理が、「米欧回覧実記」に記されている[29]。明治22年3月よりビーゲレーベン男爵が特命全権大使として日本に着任し、明治25年まで3年以上勤務した[30]。その後任としてハインリヒ・クーデンホーフ=カレルギー伯爵が代理公使として着任した(ハインリヒと日本人妻の次男はのちにEU発足のきっかけとなった国際汎ヨーロッパ連合を提唱したリヒャルト・クーデンホーフ=カレルギー)。

1892年(明治25年)、後にサラエヴォでセルビア人民族主義者により暗殺され第一次世界大戦勃発のきっかけとなった皇太子フランツ・フェルディナント・フォン・エスターライヒ=エステが世界一周旅行の際来日した。1913年(大正2年)皇太子はシェーンブルン宮殿に見よう見まねで日本庭園を造営させた。1998年(平成10年)日本から庭師を招き正式に枯山水の庭園が整備された。

1910年(明治44年)、オーストリア=ハンガリー帝国のテオドール・エードラー・フォン・レルヒ少佐は、日露戦争でロシア帝国に勝利した日本陸軍の研究のため1910年11月に交換将校として来日、翌年新潟県上越市において日本で初めて本格的なスキー指導(ただし一本杖を用いたスキー術)をおこなった。さらに1912年には旭川で指導した。

1911年(明治44年)に行われたカール皇子とブルボン=パルマ家ツィタの結婚にたいして明治天皇がフランツ・ヨーゼフ1世に「大祝辞」を発した。威徳隆盛なる朕の良友に復す。

陛下の鍾愛なる皇甥カール、フランツ、ヨーゼフ親王殿下とジタ、ド、ブルボーン、プランセス、ド、パルム女王殿下と本年十月二十一日結婚の式礼を挙行せられたる旨同月二十六日附の親翰を以て報せられ朕欣然之を領せり。朕は此の慶事に対し陛下と陛下の皇室とともに歓喜を同ふし茲に誠実なる祝詞を呈すると共に成婚両殿下の悠久に幸福を享有せられんことを懇祷す。此の機に際し朕は陛下に対し至高の敬意と不渝(「不変」の意)の友情とを致す。明治四十四年十二月七日東京宮城に於いて陛下の良友睦仁(原文は旧字全カタカナ文で句読点なし)
その他

2022年、ウクライナ政府は、ハンガリーのオルバーン・ヴィクトル首相がオーストリア=ハンガリー帝国時代の地図(ウクライナ西部が帝国領となっている)をあしらったマフラーを公の場で着用していたことに抗議、謝罪を要求した[31]

脚注[脚注の使い方]^ Geographischer Atlas zur Vaterlandskunde, 1911, Tabelle 3.
^ a b 阿南 2015, p. 68.
^ この旗を国旗とするのはミスリード
^ Eva Priester, Kurze Geschichte Osterreichs: Aufstieg und Untergang des Habsburgerreiches, Globus-Verlag, 1949, SS.490-491.
^ Jurij K?i?ek, Die Frage des Finanzkapitals in der Osterreichisch-Ungarischen Monarchie 1900-1918, Akademie der Sozialistischen Republik Rumanien, 1965, Tabelle 17.
^ a b c d 塚本 1992, p.403
^ 大井知範、「1860年代初頭のオーストリアとプロイセンにおける東アジア進出構想-ヴュラーシュトルフとヴェルナーの東アジア政策構想を中心として-」『政治学研究論集』 2009年 29巻 p.1-22, 明治大学大学院
^ 『ハプスブルクの実験』中央公論社、1995年1月25日 1995、83頁。 
^ 『墺匈国軍政規要・附・欧洲諸強国』八角堂、1903年10月 1903、96頁。 
^ Chisholm 1911, p. 2.
^ .mw-parser-output cite.citation{font-style:inherit;word-wrap:break-word}.mw-parser-output .citation q{quotes:"\"""\"""'""'"}.mw-parser-output .citation.cs-ja1 q,.mw-parser-output .citation.cs-ja2 q{quotes:"「""」""『""』"}.mw-parser-output .citation:target{background-color:rgba(0,127,255,0.133)}.mw-parser-output .id-lock-free a,.mw-parser-output .citation .cs1-lock-free a{background:url("//upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/6/65/Lock-green.svg")right 0.1em center/9px no-repeat}.mw-parser-output .id-lock-limited a,.mw-parser-output .id-lock-registration a,.mw-parser-output .citation .cs1-lock-limited a,.mw-parser-output .citation .cs1-lock-registration a{background:url("//upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/d/d6/Lock-gray-alt-2.svg")right 0.1em center/9px no-repeat}.mw-parser-output .id-lock-subscription a,.mw-parser-output .citation .cs1-lock-subscription a{background:url("//upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/a/aa/Lock-red-alt-2.svg")right 0.1em center/9px no-repeat}.mw-parser-output .cs1-ws-icon a{background:url("//upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/4/4c/Wikisource-logo.svg")right 0.1em center/12px no-repeat}.mw-parser-output .cs1-code{color:inherit;background:inherit;border:none;padding:inherit}.mw-parser-output .cs1-hidden-error{display:none;color:#d33}.mw-parser-output .cs1-visible-error{color:#d33}.mw-parser-output .cs1-maint{display:none;color:#3a3;margin-left:0.3em}.mw-parser-output .cs1-format{font-size:95%}.mw-parser-output .cs1-kern-left{padding-left:0.2em}.mw-parser-output .cs1-kern-right{padding-right:0.2em}.mw-parser-output .citation .mw-selflink{font-weight:inherit}"オーストリア". 山川 日本史小辞典 改訂新版. コトバンクより2023年10月6日閲覧。
^ "三帝同盟". 旺文社世界史事典 三訂版. コトバンクより2023年10月6日閲覧。


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