オーストリア=ハンガリー帝国
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1903年 - 6月、清国天津市市域の一部を租界地として獲得[20]。
1907年 - 男子普通選挙法成立[21]。
1908年 - 10月、ボスニア、ヘルツェゴヴィナの併合を宣言[22]。
1912年 - 第一次バルカン戦争。この時、セルビア王国の力を抑制すべくオスマン帝国を支援。終戦後はセルビア占領地域のアルバニアの建国を支援。
1914年
6月28日 - オーストリア大公フランツ・フェルディナント夫妻、サラエヴォで暗殺される(サラエボ事件)[23]。
7月5日 - セルビアに対抗すべく、ドイツの支援を求めこれを獲得する[24]。
7月24日 - 厳しい内容の最後通牒をセルビア政府に送付[24]。
7月25日 - セルビアが最後通牒の一部を拒否、ロシア帝国に支援を求める。
7月28日 - セルビアに宣戦布告[25]。
7月29日 - ベオグラードを砲撃。ロシアが兵力動員を開始。
8月1日 - ドイツがロシアに宣戦布告した[25]。イギリス艦隊動員。フランス軍、ドイツのルクセンブルク侵攻に対して兵力動員。
8月3日 - ドイツがベルギーに侵攻、フランスに宣戦布告[25]。
8月4日 - イギリスがドイツに宣戦布告[25]。
8月5日 - オーストリアがロシアに宣戦布告[25]。
8月10日 - フランスがオーストリアに宣戦布告[25]。
8月11日 - イギリスがオーストリアに宣戦布告[25]。
1915年
5月23日 - イタリア王国がオーストリアに対して宣戦布告[25]。
10月 - セルビア全土を占領。
1916年
6月 - ブルシーロフ攻勢でロシア軍に惨敗を喫す[24]。
8月27日 - ルーマニア王国がオーストリアに対して宣戦布告[25]。
11月21日 - フランツ・ヨーゼフ1世崩御、カール1世即位[25]。
12月 - ルーマニアの大半を占領、ルーマニア王国を降伏させる。
1917年
1月 - 皇后ツィタの兄であるシクストゥス公子による単独講和工作の初め。
10月 - 膠着したイゾンツォ戦線にドイツ軍が参戦、カポレットの戦いでイタリア王国に勝利を収める[26]。
1918年
3月3日 - ロシア革命政府、同盟軍と単独講和を行い戦争を離脱。
4月 - 帝国内の諸民族による自治要求(ローマ会議)。
6月15日 - イゾンツォ戦線で単独攻勢を開始、ピアーヴェ川の戦いでイタリア王国軍に敗北する。
10月 - ブダペスト暴動起こる。チェコスロヴァキア共和国独立を宣言[27]、以後帝国内で独立相次ぐ。
10月24日 - ヴィットリオ・ヴェネトの戦いで敗北。退却中に主力軍が降伏し、主戦力を喪失。
10月27日 - 連合国各国に対し降伏を宣言。
11月3日 - イタリア王国とヴィラ・ジュスティ休戦協定を結び停戦、降伏[28]。
11月11日 - カール1世、「国事不関与」を宣言してシェーンブルン宮殿を退去。
日本との関係新橋駅に到着したフランツ・フェルディナントを描いた日本の錦絵(楳堂小国政画)1873年(明治6年)6月に岩倉使節団がオーストリア=ハンガリー帝国を訪問しており、その当時のオーストリア各州の地理が、「米欧回覧実記」に記されている[29]。明治22年3月よりビーゲレーベン男爵が特命全権大使として日本に着任し、明治25年まで3年以上勤務した[30]。その後任としてハインリヒ・クーデンホーフ=カレルギー伯爵が代理公使として着任した(ハインリヒと日本人妻の次男はのちにEU発足のきっかけとなった国際汎ヨーロッパ連合を提唱したリヒャルト・クーデンホーフ=カレルギー)。
1892年(明治25年)、後にサラエヴォでセルビア人民族主義者により暗殺され第一次世界大戦勃発のきっかけとなった皇太子フランツ・フェルディナント・フォン・エスターライヒ=エステが世界一周旅行の際来日した。1913年(大正2年)皇太子はシェーンブルン宮殿に見よう見まねで日本庭園を造営させた。1998年(平成10年)日本から庭師を招き正式に枯山水の庭園が整備された。
1910年(明治44年)、オーストリア=ハンガリー帝国のテオドール・エードラー・フォン・レルヒ少佐は、日露戦争でロシア帝国に勝利した日本陸軍の研究のため1910年11月に交換将校として来日、翌年新潟県上越市において日本で初めて本格的なスキー指導(ただし一本杖を用いたスキー術)をおこなった。
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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
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