オーストリア=ハンガリー帝国
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1869年 - 日墺修好通商航海条約締結、日本との国交が結ばれる[11]。
1873年 - 6月、三帝同盟成立[12]。
1878年 - 6月13日、ベルリン列国会議に参加。ベルリン条約で、ボスニア・ヘルツェゴヴィナの行政権を得る[13]。
1879年 - ドイツ帝国と同盟[14]。
1881年 - 6月、三帝協商成立[15]。
1882年 - 5月、三国同盟成立[16]。
1887年 - 6月、独露再保障条約[17]。オーストリア、三帝協商の更新を受けず[15]。
1897年 - 最初の普通選挙による帝国議会選挙[18]。バデーニ言語令によるドイツ系・チェコ系の対立で国政が混乱[18]。
1900年 - 清国で義和団の乱が発生したため、列強国連合として派兵を行う[19]。
1903年 - 6月、清国天津市市域の一部を租界地として獲得[20]。
1907年 - 男子普通選挙法成立[21]。
1908年 - 10月、ボスニア、ヘルツェゴヴィナの併合を宣言[22]。
1912年 - 第一次バルカン戦争。この時、セルビア王国の力を抑制すべくオスマン帝国を支援。終戦後はセルビア占領地域のアルバニアの建国を支援。
1914年
6月28日 - オーストリア大公フランツ・フェルディナント夫妻、サラエヴォで暗殺される(サラエボ事件)[23]。
7月5日 - セルビアに対抗すべく、ドイツの支援を求めこれを獲得する[24]。
7月24日 - 厳しい内容の最後通牒をセルビア政府に送付[24]。
7月25日 - セルビアが最後通牒の一部を拒否、ロシア帝国に支援を求める。
7月28日 - セルビアに宣戦布告[25]。
7月29日 - ベオグラードを砲撃。ロシアが兵力動員を開始。
8月1日 - ドイツがロシアに宣戦布告した[25]。イギリス艦隊動員。フランス軍、ドイツのルクセンブルク侵攻に対して兵力動員。
8月3日 - ドイツがベルギーに侵攻、フランスに宣戦布告[25]。
8月4日 - イギリスがドイツに宣戦布告[25]。
8月5日 - オーストリアがロシアに宣戦布告[25]。
8月10日 - フランスがオーストリアに宣戦布告[25]。
8月11日 - イギリスがオーストリアに宣戦布告[25]。
1915年
5月23日 - イタリア王国がオーストリアに対して宣戦布告[25]。
10月 - セルビア全土を占領。
1916年
6月 - ブルシーロフ攻勢でロシア軍に惨敗を喫す[24]。
8月27日 - ルーマニア王国がオーストリアに対して宣戦布告[25]。
11月21日 - フランツ・ヨーゼフ1世崩御、カール1世即位[25]。
12月 - ルーマニアの大半を占領、ルーマニア王国を降伏させる。
1917年
1月 - 皇后ツィタの兄であるシクストゥス公子による単独講和工作の初め。
10月 - 膠着したイゾンツォ戦線にドイツ軍が参戦、カポレットの戦いでイタリア王国に勝利を収める[26]。
1918年
3月3日 - ロシア革命政府、同盟軍と単独講和を行い戦争を離脱。
4月 - 帝国内の諸民族による自治要求(ローマ会議)。
6月15日 - イゾンツォ戦線で単独攻勢を開始、ピアーヴェ川の戦いでイタリア王国軍に敗北する。
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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
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