オーストリア大公国
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中世後期には既に形骸化しつつあった神聖ローマ帝国が、近世初期のヴェストファーレン条約によって完全に有名無実化すると、ハプスブルク家の「オーストリア」として中東欧方面に領土を拡大、列強国の一つとして君臨し続けた。

1804年ナポレオン・ボナパルトフランス皇帝を称すると、オーストリア大公でもあった神聖ローマ皇帝フランツ2世は、オーストリア皇帝フランツ1世を称した。そして1806年には、神聖ローマ帝国が正式に解体され、所領はオーストリア帝国として再編された。ハプスブルク家の旗



歴史1477年のオーストリア大公国領土1789年のオーストリア大公国領土

1359年ルドルフ4世がオーストリア大公を僭称する。

1438年アルブレヒト2世(オーストリア領主としてはアルブレヒト5世)がローマ王に即位、以後ハプスブルク家が神聖ローマ帝国君主位を世襲する。

1457年、神聖ローマ皇帝フリードリヒ3世(オーストリア領主としてはフリードリヒ5世)がオーストリア大公の称号を正式のものとして帝国法で定める。

1526年モハーチの戦いハンガリー王ラヨシュ2世が戦死する。皇帝フェルディナント1世が王位を獲得し、ハンガリー北部及び西部を領有する。

1529年第一次ウィーン包囲で、オスマン帝国の攻撃を退ける。

1555年アウクスブルクの和議

1618年三十年戦争が勃発。ローマ・カトリック勢力として参戦。

1648年ヴェストファーレン条約を締結、ボヘミアを奪回する。

1683年第二次ウィーン包囲でオスマン帝国の攻撃を退ける。撤退したオスマン帝国軍を追撃し、大トルコ戦争が始まる。

1699年カルロヴィッツ条約を締結、ハンガリー東部及び南部トランシルヴァニア公国スラボニアを獲得。

1701年スペイン継承戦争が勃発。レオポルト1世が息子カール(のちのカール6世)を王位請求者に立ててフランスブルボン家とスペイン王位を争う。

1714年ラシュタット条約を締結、南ネーデルラントなどを獲得。

1716年墺土戦争でオスマン帝国に勝利し、西ワラキア、北セルビア及び北ボスニアを獲得。

1740年マリア・テレジアが女大公となる。オーストリア継承戦争が勃発、シュレージエンを失う。

1756年七年戦争が勃発。

1763年フベルトゥスブルク条約を締結、プロイセンによるシュレージエン領有が確定。

1772年第一次ポーランド分割ガリツィアを獲得。

1795年第三次ポーランド分割クラクフを獲得。

1804年フランツ1世がオーストリア皇帝を称する(オーストリア帝国の成立)。

参考文献

大津留厚『ハプスブルク帝国』(山川出版社<世界史リブレット>、1996年

『ダイアローグ世界史年表』(第一学習社
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