オーストリア人(ドイツ語: Osterreicher 女性形はOsterreicherin)は、 元々、現在のオーストリアは神聖ローマ帝国の皇帝位を近世に独占していたハプスブルク家の領国オーストリア大公国の後身であり、名目上とはいえオーストリアはドイツ諸邦の盟主の座にあった。 神聖ローマ帝国が崩壊した後、神聖ローマ皇帝フランツ2世はオーストリア皇帝フランツ1世と称し、オーストリア帝国が成立した。しかしハプスブルク家が世襲してきた領国(ハプスブルク帝国)には11の民族と5,000万の国民が居住しており、彼らがオーストリア家(ハプスブルク家)に忠誠を誓うことでオーストリア帝国は糾合されると考えられた。そのため「領地はたくさんある。人口はたくさんある。オーストリア民族はいない。国家はない」(H・アンディクス)と言われる有様であった。 神聖ローマ帝国亡き後に発足したドイツ連邦の議長国はオーストリア帝国であった。ドイツ連邦の解体後はプロイセン王国を中心とするドイツ帝国とハプスブルク家のオーストリア=ハンガリー帝国に完全に分断されたが、その後もアンディクスの評を証明するように、オーストリアのドイツ語話者の間には自分たちは「ドイツ人」であるという意識が続いた。19世紀オーストリアを代表する宰相メッテルニヒも、オーストリア域外出身のドイツ人である。 第一次世界大戦によって「民族自決の原則」に従いオーストリア=ハンガリー帝国は解体に向かい、大戦末期の1918年のオーストリア革命によって第一共和国が成立した。上オーストリア、下オーストリア、ケルンテン、ザルツブルク地方、チロルのドイツ人居住地域(南チロルを除く)などを残すのみの小国となったオーストリアでは、ドイツとの統合が政治的立場の左右を問わない国民の念願となったが、サン=ジェルマン条約によってドイツとオーストリアとの統合は禁じられた。 ドイツ・オーストリア合邦(アンシュルス)がようやく実現したのは1938年のことだったが、それは決して平和的なものではなく、ナチス・ドイツによる軍事的圧力の下で行われた。エスターライヒ(オーストリアのドイツ語名)という地名は抹殺されて「オストマルク」と改称させられ、戦争の惨禍に巻き込まれた。ナチス・ドイツを率いたアドルフ・ヒトラーはオーストリア出身で、ドイツに移り「ドイツ民族の糾合」を唱えたが、自身のルーツはボヘミア(チェコ)系(ボヘミア・ドイツ人
オーストリア共和国の国籍を有する人(ドイツ系(バイエルン系、アレマン系の一部)、イタリア系、チェコ系、スロバキア系、スロベニア系、マジャル系、トルコ系、ユダヤ系など)。
1.の中でも特にドイツ語(オーストリア・ドイツ語、バイエルン・オーストリア語、アレマン諸語の一部など)を母語とする人々。オーストリア国民の9割以上を占める。ドイツ系オーストリア人という呼び方をする場合もあるが、この呼び名が(たとえば日系アメリカ人のように)ドイツ連邦共和国からの移住者やその2世3世を指すことは滅多になく、ほとんどは累代のオーストリア人である。
概要
ナチス・ドイツ統治下時代を経て、オーストリア人は自分たちがドイツ人ではなくオーストリア人であるという感情(アイデンティティ)を初めて抱くようになり、1955年にカール・レンナー首班によるオーストリア第二共和国が成立する。