オークランド・アスレチックス
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チーム名が長いことから「A's(エーズ)」と略称でも呼ばれる。
概要

アメリカンリーグ創設時から存在し、ワールドシリーズ制覇9回・リーグ優勝15回を有する古豪球団。シーズン成績の詳細については年度別成績一覧を参照
略歴

1893年にフィラデルフィアで発足し、1901年のリーグ発足以来アメリカンリーグに所属する。20世紀前半、コニー・マックが50年以上にわたって監督を務め、後半はオーナーも兼ねた(現在はオーナーが監督、コーチまたは選手となることはできない)。1931年までに9回のア・リーグ優勝と5回のワールドチャンピオンに輝いている。

1955年ミズーリ州カンザスシティに移転。1960年にはチャーリー・O・フィンリーがオーナーに就任し、この名物オーナーの下で大変革が行われた。1968年に現在の本拠地であるカリフォルニア州オークランドに移転。1970年代にはオーナーの奨励で選手達が揃って長髪に口髭を蓄え、「マスターシュ(口ひげ)・ギャング」として恐れられた。

リーグ3連覇した1988年?1990年以降は選手の年俸高騰に苦しむが、2000年代前半からはビリー・ビーンGMによるセイバーメトリクスを重視したチーム作りが注目されるようになった。
白い象

現在ユニフォームの袖につけられているマークや、球団マスコット“ストンパー”のモチーフとなった「白い象」は、1902年ニューヨーク・ジャイアンツ(現在のサンフランシスコ・ジャイアンツ)の監督となったジョン・マグローが、新興チームのフィラデルフィア・アスレチックス(当時の名称)を蔑んで「白い象」と形容したことに由来する[1][注釈 1]。ここで「白い象」とは、英語で「無用の長物」という意味を持つ。「白象_(動物)#「白い象」はなぜ厄介か?」を参照

マグロー発言以降、「白い象」という表現はアスレチックス自身やアスレチックスファンによって意趣返しのスローガンとして使われるようになった。1902年のアメリカンリーグでアスレチックスが優勝した時には、優勝パレードに白い象をかたどったフロート車が登場した[1]コニー・マックの率いるアスレチックスがマグローの率いるジャイアンツと1905年のワールドシリーズで初めて対戦した際には、試合のパンフレットにも白い象が描かれた[1]。このシリーズでアスレチックスは敗れたが、同チーム・同監督の対戦となった1911年1913年のワールドシリーズでは、アスレチックスがジャイアンツに勝利している。
球団の歴史
創設?10万ドルの内野

フィラデルフィアは1830年代という古くから人々がタウンボール(ベースボールの原型)を楽しんでいた土地柄で、野球が普及し始めた1860年頃には、「アスレチック・ベースボール・クラブ」という強豪のアマチュアチームが活動し、ニューヨークやブルックリンのクラブに引けを取らない強さを誇っていた(フィラデルフィア・アスレチックス (1860-1876年)を参照)。1876年にチームが解散した後も、1882年にはアメリカン・アソシエーションフィラデルフィア・アスレチックス (1882-1890年))に、1890年にはプレイヤーズ・リーグフィラデルフィア・アスレチックス (1890-1891年))にも同名のチームが誕生した。現在のチームは1893年に発足し、1901年に新興メジャーリーグとして誕生したアメリカンリーグに加盟した。チーム名はフィラデルフィアに本拠地を置くことが決まった際に上記チーム名を復活させたものである。

コロンビア・パークを本拠地とし、メンバーの多くは同じフィラデルフィアを本拠地としていたフィラデルフィア・フィリーズから移籍してきた選手で、発足1年目のチームとしては充実した戦力を誇っていた。特に看板選手だったナップ・ラジョイと、エースのチック・フレーザーの移籍の煽りを受けたフィリーズは弱体化し、以後長期にわたって低迷してしまうことになる。ラジョイはこの年打率.426と打ちまくり、アメリカンリーグの初代首位打者となった。翌1902年、移籍に絡む問題でフィリーズから訴えられたアスレチックスはラジョイをクリーブランドに放出、カブスにいたルーブ・ワッデルを獲得する。マックは奇行を繰り返すワッデルに手を焼いたが、その類いまれな奪三振能力を見抜いていた。アスレチックス移籍後のワッデルは6年連続リーグ最多奪三振、1905年のリーグ三冠投手(最多勝、最優秀防御率、最多奪三振)となるなど、1900年代のアスレチックスの主力投手となった。

1909年よりシャイブ・パークを本拠地とし、1909年から1914年は6年連続90勝以上でワールドシリーズ出場4回、ワールドチャンピオンに3回輝いた。マックが率いたメンバーは「10万ドルの内野陣」といわれた一塁手スタフィ・マッキニス、二塁手エディ・コリンズ、三塁手フランク・ベーカー、遊撃手ジャック・バリー。投手は殿堂入りコンビのエディ・プランクチーフ・ベンダーが中心だった。

長く続くかと思われたアスレチックスの栄華は、選手の年俸高騰によりマックが緊縮財政に転換したことで、1915年に突如その終わりを迎えた。主力投手だったプランクとベンダーは、前年から運営されていたフェデラル・リーグへ放出され、チームの得点源だったエディ・コリンズもホワイトソックスへ移った。チームは機能しなくなり、アスレチックスは「前年リーグ優勝チームが次の年に最下位」という、不名誉な記録を作ることになる。
2度目の隆盛

2度目のチーム躍進への転機は1925年に訪れた。この年久々に88勝を挙げてシーズンを勝ち越すと、1927年から1932年に6年連続90勝以上、3年連続100勝以上を挙げるチームになった。この頃のメンバーは、投手では殿堂入りしたレフティ・グローブの他、以前の低迷期から投げてきたエディ・ロンメル、1929年から3年連続20勝を挙げたジョージ・アーンショーらが中心で、野手では捕手ミッキー・カクレーン、一塁手ジミー・フォックス、外野手アル・シモンズ、三塁手ジミー・ダイクスらが猛打を振るった。特にシモンズはマック監督のお気に入りとして知られている。1920年代後半は「殺人打線」のニューヨーク・ヤンキースの全盛期でもあったが、1929年から1931年のアスレチックスはそのヤンキースさえ凌駕する勢いでリーグを3連覇し、2度ワールドシリーズを制覇した。しかし1932年以降、オーナー兼任となっていたマックは再び緊縮財政をとり、高給化した上記の主力選手を次々に放出、チーム成績は再び低迷する。1950年にマックの時代は終わりを告げたが、チームが低迷を脱するのは更に20年先のことになる。
フィンリーとマスターシュ・ギャング

成績の低迷が続き観客動員でも苦しむようになったアスレチックスは、1955年に本拠地をカンザスシティに移す。戦績は相変わらず伸びなかったが、移転1年目には初めて100万人を動員することができた。

シカゴの保険業をしていたチャーリー・O・フィンリーがアスレチックスを買収したのは1960年のことである。フィンリーは奇抜なアイデアを次々と出した。1963年には、黄色(公式には金色と呼称)のユニフォームを採用。それまで、MLBでもユニフォームといえば白・グレー・黒だけだっただけに、当時としては極めて斬新であった(のち1972年にはグリーンのユニフォームを採用)。チームは1968年に現在の本拠地であるカリフォルニア州オークランドに移転。1970年代に入るとDH(指名打者)制を提案し、ア・リーグはこのフィンリーの案を満場一致で受け入れ、1973年よりDH制を採用した。当時、ワールドシリーズは全てデーゲームで行われていたが、初めてナイトゲームで開催。他にも、「四球」ではなく「三球」で出塁というルールや、カラーボールの採用を提案し、オープン戦では実行したが、受け入れられなかった。また、この当時すでに地元メディアにインターリーグの構想を提唱していた。チームにおいても、選手に長髪と口ひげを伸ばすことを奨励。童顔だったロリー・フィンガースはカイゼル髭を蓄えた。

2地区制が始まった1969年以降、チームは長かった低迷期を脱しつつあった。1971年には初の地区優勝、ディック・ウィリアムズらがチームを率いた1972年から1974年にはワールドシリーズ3連覇を成し遂げた。6度の盗塁王に輝いたバート・キャンパネリス、強打者レジー・ジャクソンが攻撃の中心だったが、一方で充実した投手陣を要し、キャットフィッシュ・ハンターヴァイダ・ブルー、ケン・ホルツマンの3本柱にクローザーのローリー・フィンガーズ擁する投手陣は安定感抜群であった。


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