基礎データ
人口: 195,182人
世帯数: 72,307世帯
家族数: 48,228家族
人口密度: 249.4人/km2(646.0人/mi2)
住居数: 80,481軒
住居密度: 102.8軒/km2(266.4軒/mi2)
人種別人口構成
白人: 44.91%
アフリカン・アメリカン: 50.37%
ネイティブ・アメリカン: 0.27%
アジア人: 1.52%
太平洋諸島系: 0.12%
その他の人種: 1.02%
混血: 1.78%
ヒスパニック・ラテン系: 2.79%
年齢別人口構成
18歳未満: 26.8%
18-24歳: 12.0%
25-44歳: 29.9%
45-64歳: 20.4%
65歳以上: 10.9%
年齢の中央値: 32歳
性比(女性100人あたり男性の人口)
総人口: 93.2
18歳以上: 89.7
世帯と家族(対世帯数)
18歳未満の子供がいる: 33.5%
結婚・同居している夫婦: 41.5%
未婚・離婚・死別女性が世帯主: 20.8%
非家族世帯: 33.3%
単身世帯: 27.9%
65歳以上の老人1人暮らし: 8.5%
平均構成人数
世帯: 2.55人
家族: 3.13人
収入と家計
収入の中央値
世帯: 32,972米ドル
家族: 38,431米ドル
性別
男性: 29,663米ドル
女性: 22,764米ドル
人口1人あたり収入: 17,117米ドル
貧困線以下
対人口: 19.6%
対家族数: 16.3%
18歳未満: 27.4%
65歳以上: 14.0%
歴史
設立ジェイムズ・オグルソープ
オーガスタは瀑布線に位置するので、先住民族がサバンナ川を横切る場所として使ったのが最初であった。
1735年ジェイムズ・オグルソープがサバンナを設立した2年後、サバンナ川を遡る分遣隊を派遣し、航行可能な川上に拠点を造るよう命令した。この仕事はノーベル・ジョーンズの手に渡り、スペインやフランスに対する第1防衛線となる入植地を造った。オグレソープは当時の皇太子フレデリックの妻オーガスタ妃に因んで町の名前をオーガスタと名づけた。
町はサバンナ川に向かう緩やかな斜面に配置され、直ぐ東の砂丘は“サマービル”として知られるようになった。町民は周辺に住んでいたクリーク族やチェロキー族インディアンと友好的に共生していた。
1739年、サバンナと結ぶ道路の建設が始まった。このことは、船ではなく馬でオーガスタに来ることを可能にし、多くの人々が内陸のオーガスタに移住してくるようになった。1750年、オーガスタの最初の教会セントポールズ教会がオーガスタ砦の近くに建設された。これが地域教区の始まりとなった。
ジョージア植民地の新しい憲法のもとで、1777年に新しい政治体制が布かれ、オーガスタの教区政府は新しい郡政府に置き換えられた。郡名のリッチモンドは、リッチモンド公爵に因んで名づけられた。 アメリカ独立戦争の間、サバンナがイギリス軍の占領するところとなった。このためにオーガスタが首都となり、イギリス軍の新しい主要目標にされた。1779年1月31日、オーガスタはイギリス軍のアーチボルド・キャンベル中佐によって占領された。しかし、アメリカ軍がサバンナ川の対岸に結集するとキャンベルはすぐに撤退した。オーガスタは再び首都となったが、これも長く続かなかった。独立戦争の末期に再びイギリス軍に占領された。 この頃から南北戦争の頃まで、オーガスタ運河の建設も貢献して、オーガスタは繊維、火薬および紙の製造で先導者となった。1845年には土地の企業ファニン・グラント&Coがジョージア鉄道を敷き、アトランタと結ばれたうえにチャタヌーガでテネシー川にも結ばれ、ミシシッピ川までの交通が可能になった。国の中央部からサバンナ川を介して大西洋まで経費を節約できるこの経路によって、貿易量が大きく増加した。オーガスタの人口は1860年に12,493人となり、当時1万人を越えた102の全米都市の一つとなり、ジョージア州でも2番目となった。 元々、オーガスタの民衆は南北戦争の考え方を歓迎した。連合火薬製造所はアメリカ連合国が建設し完成させた唯一の恒久的建造物であった。2,000名以上のオーガスタ市民が戦いに参加したが、1863年の夏まではオーガスタ市民の心には戦争が入って来ていなかった。侵略を恐れてこの地域に逃亡してきた何千もの避難民がオーガスタの町を込み合わせ、住居や物資の不足を招いた。続いてウィリアム・シャーマン将軍の軍隊が接近していると言う脅威が訪れ、静かな町の通りに恐慌が走った。しかし、町が焼き払われることはなかった。 1828年、ジョージア州議会はジョージア医科専門学校の設立を公式に認め、市民病院の2つの部屋を借りて医者の養成が開始された。1873年、ジョージア大学との提携がなり、ジョージ大学の医学部となった。さらに1956年、ジョージア医科大学となった。1914年大学病院が医科大学の近くに設立され、町の高度に発達した医療地区の基盤となった。 多くの南部都市とは異なり、オーガスタの南北戦争後の生活は大変繁栄していた。20世紀の初めまでに、オーガスタは世界でも最大の内陸綿市場の一つになった。近郷には、キャンプ・ハンコックという新しい軍隊基地が第一次世界大戦の間に設営された。 第二次世界大戦の前に、アメリカ陸軍はリッチモンド郡近くに新しい砦、ゴードン砦を建設し始め、真珠湾攻撃の数日前に完成した。多くの新兵がこの砦に来て訓練を施され戦場に向かった。第二次世界大戦の後数ヶ月、ゴードン砦にいた多くのGIが帰郷し、地域社会における軍隊の重要さがほぼ終わったかに見えた。 1948年、アメリカ陸軍はゴードン砦に信号通信訓練センターと軍事警察学校を移設したことで、町の様相が新しくなった。
アメリカ独立戦争と1800年代
南北戦争から第二次世界大戦
オーガスタの黄金時代クラークスヒル貯水池