オルハン
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オルハンはウラマーを自国でも養成するべく、1331年にイズニクにオスマン帝国最初のメドレセ大学)を創設した[26]

法官の整備と共に君主を補佐する役職が設置され、行政を統括する宰相に外来のウラマーであるアラエッディン・パシャ(英語版)を、軍事を統括するベイレルベイ(司令官)に長子のスレイマンを任命した。
軍制改革の試み

オルハンの時代に、オスマン軍の軍服にはジハードの戦士の衣服を元にした、民族的な帽子が取り入れられる[24]

当時のオスマン軍の兵力はトルコ系モンゴル系の遊牧民、神秘主義(スーフィズム)を信奉する修道士、キリスト教徒であるエヴレノス家にミハル家などで構成される雑多な集団であった[27]。こうした自主性の強いオスマン軍への統制を強化し[28]、より効率のいい軍事活動を展開するために[29]、従来の遊牧民を中心とする軍団から君主直属の常備軍への再編成が行われた。

トルコ系の民族から徴募した歩兵(ヤヤ)と騎兵(ミュセッレム)[注 7]に軍団を再編成し、2つの軍隊に編入された彼らは軍役中は給与を現金で受け取り、平時は税を課されず農業に従事していた[30][注 8]非正規の騎兵アクンジュ(『スレイマン・ナーメ』より)

だが、常備軍の編成は満足な結果を残さず、どちらも補助軍の一部に格下げされ、常備軍制定の実現は奴隷軍人からなるイェニチェリが創設されるムラト1世の治世を待たなければならない[30][注 9]

他方、同時代に編成された非正規の騎兵(アクンジュ)[31]は、バルカン半島での勢力拡大に大いに貢献した。彼らは給料が支払われない代わりに略奪品を獲得する権利を持ち、バルカン半島の国境地帯に配属された。機動力に優れるアクンジュが敵国に侵入を繰り返した後に本隊が攻め込む戦法は、バルカン半島での領土拡大に有効であった[32]

オーストリアの歴史家パウル・ヴィッテク(ドイツ語版)はこうしたオスマン帝国の軍事組織の発展より、非イスラム世界の征服を目的とする、宗教的かつ戦士的なガーズィー精神の影響を指摘した[31]
アクチェ銀貨

ヒジュラ暦727年(1326年 - 1327年)[33]にオスマン帝国独自の貨幣であるアクチェ(英語版)銀貨[34]が初めて鋳造された。この硬貨は東ローマ帝国、トレビゾンド帝国で鋳造された硬貨を参考にしており[35]、硬貨には「アッラーよ オスマンの子オルハンの国を永遠たらしめ給え」[36]という言葉が刻まれていた。このアクチェ銀貨は、17世紀に至るまでオスマン帝国の通貨の基本単位として長く用いられた[35]
ブルサの統治オルハンがブルサに建立したモスク

オルハンが獲得したブルサはアナトリアにおける商業の一大拠点として発展する。ジェノヴァ、ヴェネツィアの商人の中には、イランから流れてきた絹製品と自国の毛織物を交換するためにブルサを訪れる者もいた[37]

1330年代にブルサの聖エリアス教会をモスクに改修し[38]、父オスマンをモスクの墓に埋葬した。モスクは火災や地震によって何度も損壊するが、その度に修復、再建されて現在もブルサの中心地に姿を留めている。
人物
性格

トルコ共和国の国定教科書では、彼の誠実な人格と信仰心が称賛されている[20]。彼の性格を表すエピソードとして、攻略直後のイズニクにモスク、マドラサと共に建てた救貧院の開設式の折には自らスープを配り、夜には付木を焚いた話が紹介されている。

また、イブン・バットゥータの『大旅行記』には、オルハンが首都に1か月も留まることなく国内を見回り、時には異教徒と戦ったという伝聞が記されている[39]
脚注
注釈^ ニールーフェル・ハトゥンは「ホロフィラ」の名でも知られる。(永田、羽田『成熟のイスラーム社会』、53頁)
^ 『岩波西洋人名辞典 増補版』(岩波書店、1981年12月)では、1281年
^ 「ガーズィー」とは、イスラーム世界の辺境を守り、異教徒との戦争に従事する「信仰の戦士」という意味である。(小山皓一郎「ガージー」『新イスラム事典』収録(平凡社、2002年3月))
^ 歴代オスマン帝国君主の生母の内、唯一奴隷でないと確実視されている人物である。(小笠原『オスマン帝国 繁栄と衰亡の600年史』、52頁)
^ ヨハネス6世は別の同盟者であるアイドゥン侯国のウムルにも娘を嫁がせた。(林『オスマン帝国500年の平和』、54頁)
^ R.マントラン『改訳 トルコ史』、42頁によれば1346年。
^ R.マントランは、オルハン時代の騎兵はシパーヒー、シリフダル、ウルフェジ、グレバで構成されたとしている。(R.マントラン『改訳 トルコ史』、43頁)
^ 尚樹啓太郎によれば、歩兵は移民、騎兵は古参の将兵より選抜された。(尚樹『ビザンツ帝国史』、818頁)
^ イェニチェリが創設された年代に定説は無いが、次代のムラト1世の治世と推定する研究者が多い。とはいえ、R.マントランのように、オルハンの治世にイェニチェリが創設されたとする研究者も存在する。(R.マントラン『改訳 トルコ史』、43頁)

出典^ バットゥータ『大旅行記』3巻(家島彦一訳注)、313,385-386頁
^ a b 三橋「オルハン」『アジア歴史事典』2巻
^ a b c U.クレーファー『オスマン・トルコ 世界帝国建設の野望と秘密』、30頁
^ 三橋「オルハン」『アジア歴史事典』2巻 林『オスマン帝国500年の平和』、46頁
^ 小笠原『オスマン帝国 繁栄と衰亡の600年史』、32・35頁
^ 鈴木『オスマン帝国 イスラム世界の「柔らかい専制」』、34頁
^ R.マントラン『改訳 トルコ史』、41頁
^ a b 尚樹『ビザンツ帝国史』、813頁
^ 林『オスマン帝国500年の平和』、46頁
^ バットゥータ『大旅行記』3巻(家島彦一訳注)、313,385頁
^ 三橋『トルコの歴史 オスマン帝国を中心に』、97頁 R.マントラン『改訳 トルコ史』、42頁 N.アクシト『トルコ 2』、55頁 林『オスマン帝国500年の平和』、46頁
^ R.マントラン『改訳 トルコ史』、42頁
^ 尚樹『ビザンツ帝国史』、830頁
^ 尚樹『ビザンツ帝国史』、814頁
^ N.アクシト『トルコ 2』、54頁
^ a b 尚樹『ビザンツ帝国史』、840頁
^ 永田、羽田『成熟のイスラーム社会』、73頁
^ 三橋『トルコの歴史 オスマン帝国を中心に』(紀伊国屋新書)、99頁 N.アクシト『トルコ 2』、56頁 U.クレーファー『オスマン・トルコ 世界帝国建設の野望と秘密』、41頁
^ 小笠原『オスマン帝国 繁栄と衰亡の600年史』、41頁
^ a b N.アクシト『トルコ 2』、56頁
^ 小笠原『オスマン帝国 繁栄と衰亡の600年史』、42-43頁
^ 林『オスマン帝国500年の平和』、56頁
^ 鈴木『オスマン帝国 イスラム世界の「柔らかい専制」』、36-37頁
^ a b 尚樹『ビザンツ帝国史』、818頁
^ 鈴木『オスマン帝国 イスラム世界の「柔らかい専制」』、37-38頁 永田、羽田『成熟のイスラーム社会』、50頁
^ a b 鈴木『オスマン帝国 イスラム世界の「柔らかい専制」』、40頁


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