オルデンブルク_(領邦)
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この時のオルデンブルク伯領 (de:Grafschaft Oldenburg) にはデルメンホルスト伯領も含まれていたが、デルメンホルスト伯領はその後一族の若い分枝のための所領としてしばしば分割された(1262年-1447年、1463年-1547年、1577年-1617年)[1]

13世紀初頭、オルデンブルク伯領はその北や西に広がる、独立のものもあれば半独立のものもあったフリース人諸国(フリースラント)との一連の戦争を戦い、領土を次第に拡大させた。オルデンブルク伯は、隣接する自由ハンザ都市ブレーメンミュンスター司教 (en) とも頻繁に戦争を繰り返した[1]
デンマークとオルデンブルクデンマーク王クリスチャン1世(オルデンブルク伯クリスティアン7世)

Fortunatusとも呼ばれたディートリッヒ (en) の子で、1440年にオルデンブルク伯位を継承したのが、クリスティアン7世である。母方の家系でデンマーク王につながっていた(ホルシュタイン伯家出身の母がエーリク5世の血を引いていた)クリスティアン7世は、1448年にデンマーク王に選出された(クリスチャン1世。彼にはじまる王朝がオルデンブルク朝(オレンボー朝)である)。これにより、オルデンブルクはデンマーク王国から遠く離れた飛地となった。オルデンブルクの統治を委ねられた王の弟たちは、しばらくのあいだ専制政治をおこなった[1]

さらにクリスチャン1世は、1450年にノルウェー王、1457年にスウェーデン王を兼ねた。1460年にはシュレースヴィヒ公国およびホルシュタイン公国を継承したが、これはその後のオルデンブルクの歴史にとって重要な出来事となる。クリスチャン1世は1454年、弟のゲルハルト6世 (en) にオルデンブルク伯の地位を譲った。ゲルハルト6世は好戦的な君主であり、ブレーメン司教 (en) やその他の隣国と恒常的に戦争を繰り広げた。1483年、ゲルハルト6世は息子たちによって退位に追い込まれ、スペインへの巡礼に出て客死することになる[1]
宗教改革と三十年戦争オルデンブルク城

16世紀初頭、オルデンブルク伯ヨハン5世 (en) は再びフリース人を犠牲にして勢力を拡大した。ヨハン5世死後、4人の息子が伯爵領を共同統治した。その一人アントン1世 (en) はルター主義を導入し、修道院を抑圧した。その一方でシュマルカルデン戦争においてはカトリック教会を支持する皇帝カール5世に対する忠誠を貫き、領土を増やした。アントンの弟クリストファも軍人として名声を得た人物で[1]、デンマーク王クリスチャン2世の復位を目指し伯爵戦争(1534年 - 1536年)を戦った。

アントン1世の孫にあたるアントン・ギュンター (en) は、1603年に伯位を継いだが、自らをしてオルデンブルク歴代で最も聡明な君主とみなしていた。イェファーはアントン・ギュンターの継承以前に伯領に編入されていたが、1624年にクニップハウゼン (de:Kniphausen) とファーレル (Varel) を領土に加え、1647年にはデルメンホルストを最終的に統合した。三十年戦争においては中立的立場を保ち、またティリー伯には貴重な軍馬を提供することによって、他のドイツ諸国が蒙った荒廃から自領を免れさせることができた。また彼は、ヴェーザー川を航行する船から通行料を徴収する権利を皇帝から得、豊かな資産を築く財源とした。1607年に彼はルネサンス式の城館を築いた[1]。しかしアントン・ギュンターは1667年に男子なく没し、オルデンブルクは同族であるデンマーク王国(オルデンブルク朝)の支配下に1773年までの約100年間置かれることとなった。
オルデンブルク公国の成立1789年のドイツ北部

オルテンブルク家の分枝であるホルシュタイン=ゴットルプ家は、1544年にデンマーク王クリスチャン3世が異母弟のアドルフを、シュレースヴィヒ=ホルシュタイン=ゴットルプ公(かつてのシュレースヴィヒ公国およびホルシュタイン公国の一部)としたことにはじまる。この系統からは、スウェーデン王家(ホルシュタイン=ゴットルプ王朝)が出たほか、リューベック司教侯家などの王侯が輩出した。第6代シュレースヴィヒ=ホルシュタイン=ゴットルプ公カール・フリードリヒはロシア皇女のアンナ・ペトロヴナと結婚、その子であるピョートル3世はロシア皇帝となった(以後のロマノフ朝をホルシュタイン=ゴットルプ=ロマノフ王朝とすることもある)。ピョートル3世の妃であったエカチェリーナ2世も母がリューベック司教侯家出身で、ホルシュタイン=ゴットルプ家の血を引いている。

1773年、デンマーク王クリスチャン7世は、ピョートル3世とエカチェリーナ2世の子パーヴェル1世にオルデンブルク伯領を割譲した。デンマークとロシアは、シュレースヴィヒ公国およびホルシュタイン公国を共有しており、オルデンブルク割譲はロシア側がシュレースヴィヒとホルシュタインに関する権利をデンマークに引き渡すことの代償であった。パーヴェルは、大伯父にあたるホルシュタイン=ゴットルプ家出身のリューベック司教侯フリードリヒ・アウグスト1世をオルデンブルク伯とした。1777年に陞爵が行われてオルデンブルク公国 (de:Herzogtum Oldenburg) となった。

フリードリヒ・アウグスト1世の子ヴィルヘルムは1785年にオルデンブルク公を継いだが、精神疾患のためすでに襲爵前に無能力が宣言されていた。このため従弟であるリューベック司教侯ペーター(のちペーター1世)が摂政としてオルデンブルク公国を動かしていた。1803年帝国代表者会議主要決議により、オルデンブルク公国はオルデンブルク=ミュンスターラント (Oldenburg Munsterland) とリューベック司教領を併合した。
ナポレオン戦争と大公国の成立ペーター1世

ナポレオン戦争中の1806年、オルデンブルク公国はフランス帝国軍およびオランダ(ホラント王国)軍によって占領され、摂政ペーターはフランスとともに戦うことを余儀なくされ、1808年にライン同盟に参加した。しかし1810年、ナポレオンは、エアフルト公国 (de:Furstentum Erfurt) との領地交換を拒否したことを理由として、オルデンブルク公国領を没収しフランス帝国に編入、ブレーメンを中心とするBouches-du-Weser県などの一部とした。

ペーターはロシアに亡命し、第六次対仏大同盟に加わった。ナポレオン没落後の1813年、摂政ペーターはオルデンブルクに帰国した。ウィーン会議においてロシア皇帝アレクサンドル1世のために協力し、これに報いるためとしてオイティン (Eutin) 、ビルケンフェルトが与えられた。また、オルデンブルクの君主号は大公に進められ、オルデンブルク大公国 (de:Grosherzogtum Oldenburg) が成立する。1823年にヴィルヘルムが死去、摂政ペーターがオルテンベルクの君主ペーター1世となるが、両者とも存命中は「大公」の称号を公称しなかった。1829年ペーターが死去し、その子のアウグストが跡を継いだ。アウグストが「オルデンブルク大公」を公称した初代となる。
革命とドイツ統一

ヨーロッパを席巻した1848年革命からオルデンブルクも免れることはできなかったが、大きな衝突が発生することもなかった。1849年に憲法が制定されたが、アウグストの性格によって非常にリベラルな憲法となった。


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