オルデンブルク_(領邦)
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オルデンブルク(ドイツ語: Oldenburg, 低ザクセン語: Ollnborg)は、中世から近代にかけてのドイツに存在した領邦国家。首都であるオルデンブルク(現在はニーダーザクセン州の都市)、およびそれに由来する領主・君主の爵位によりこの名称で呼ばれる。

中世にオルデンブルク伯領(Grafschaft Oldenburg)の領主(オルデンブルク伯)であったオルデンブルク家からは、のちにデンマーク王家(オルデンブルク朝)が出た。またオルデンブルク家の分家にあたるホルシュタイン=ゴットルプ家は、ロシアロマノフ家ピョートル3世以後)にもつながっている。それゆえにオルデンブルクは、神聖ローマ帝国に属する領邦でありながらデンマーク王が領主となっていた時代(1667年 - 1773年)があり、また短期間ながらロシア皇帝が領主になっていた(1773年)。1777年にはホルシュタイン=ゴットルプ家のもとでオルデンブルク公国(Herzogtum Oldenburg)となるが、ナポレオン戦争中にはフランス帝国による支配を受けている(1810年 - 1813年)。ウィーン会議の結果オルデンブルク大公国(Grosherzogtum Oldenburg)となり、1871年ドイツ帝国の構成国の一つとなった。
地理.mw-parser-output .tmulti .thumbinner{display:flex;flex-direction:column}.mw-parser-output .tmulti .trow{display:flex;flex-direction:row;clear:left;flex-wrap:wrap;width:100%;box-sizing:border-box}.mw-parser-output .tmulti .tsingle{margin:1px;float:left}.mw-parser-output .tmulti .theader{clear:both;font-weight:bold;text-align:center;align-self:center;background-color:transparent;width:100%}.mw-parser-output .tmulti .thumbcaption{background-color:transparent}.mw-parser-output .tmulti .text-align-left{text-align:left}.mw-parser-output .tmulti .text-align-right{text-align:right}.mw-parser-output .tmulti .text-align-center{text-align:center}@media all and (max-width:720px){.mw-parser-output .tmulti .thumbinner{width:100%!important;box-sizing:border-box;max-width:none!important;align-items:center}.mw-parser-output .tmulti .trow{justify-content:center}.mw-parser-output .tmulti .tsingle{float:none!important;max-width:100%!important;box-sizing:border-box;align-items:center}.mw-parser-output .tmulti .trow>.thumbcaption{text-align:center}}ドイツ帝国期のオルデンブルク大公国本土上が北部リューベック。下がビルケンフェルト

首都オルデンブルクは、ヴェーザー川河口にもほど近い、支流フンテ川 (Hunte) のほとりに位置する都市である。都市オルデンブルクを中心とするヴェーザー川下流域一帯が、領邦オルデンブルクの本土にあたる。

この地域は古代においてフリース人が暮らしたフリースラントと呼ばれる地域の東端にあたる。オルデンブルクを中心としてザクセン人が支配を押し広げた結果、北にはワッデン海ヤーデ湾に面する領域が形成された。フリース人の文化の名残りは、ザーターラント (Saterland) で話される東フリジア語などに残されている。

ドイツ帝国期のオルデンブルク大公国は、ドイツ帝国内に拡散した3つの領域を持っていた。本土のほか、リューベック市北部に隣接する旧リューベック司教領の一部(北部リューベック)、プロイセン王国ライン州内に位置しバイエルン王国プファルツ地方にも近い旧ビルケンフェルト侯国である。北部リューベックとビルケンフェルトは、それぞれ19世紀初頭にオルデンブルクの領邦に含まれることになった土地である。
歴史
オルデンブルク伯領

オルデンブルクの伯として最初に知られる人物は、エリマール1世 (en) (1108年没)である。エリマール1世の子孫は、ザクセン諸公国の家臣として、あるいは対抗者として現れる。1180年、皇帝フリードリヒ1世がザクセン公ハインリヒ3世の公領を没収した際、オルデンブルク伯も帝国諸侯(フュルスト)としての地位を認められた。この時のオルデンブルク伯領 (de:Grafschaft Oldenburg) にはデルメンホルスト伯領も含まれていたが、デルメンホルスト伯領はその後一族の若い分枝のための所領としてしばしば分割された(1262年-1447年、1463年-1547年、1577年-1617年)[1]

13世紀初頭、オルデンブルク伯領はその北や西に広がる、独立のものもあれば半独立のものもあったフリース人諸国(フリースラント)との一連の戦争を戦い、領土を次第に拡大させた。オルデンブルク伯は、隣接する自由ハンザ都市ブレーメンミュンスター司教 (en) とも頻繁に戦争を繰り返した[1]


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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