エウメネスは紀元前321年のヘレスポントスの戦いでクラテロスを破って武功を上げていたが、マケドニア人から尊敬を集めていたクラテロスを殺したことでマケドニア人から嫌われており、この時もペルディッカスという名の部将(前述のペルディッカスとは別人)が配下の兵と共に寝返ろうとした。この動きに対してエウメネスはテネドス人フォイニクスを急派した。フォイニクスはペルディッカスに夜襲を仕掛けて彼を生け捕りにしてエウメネスの許まで連れて行き、エウメネスは首謀者を処刑して事態を収拾した[2]。その後、カッパドキアに攻め込んできたアンティゴノスをエウメネスは迎え撃ち、両者の間で戦いが起こった。 この時アンティゴノスが率いていた兵は歩兵10000人と騎兵2000騎、そして戦象30頭であった。これに対してエウメネス軍は歩兵20000人と騎兵5000騎であり、数の上ではエウメネスが圧倒的に優勢だった。しかし、アンティゴノスは事前にエウメネス軍の騎兵指揮官アポロニデス
戦い
しかし、敗北にあってもエウメネスは優れた才覚を示した。彼は裏切り者に敵陣へと逃げる暇を与えずに即座にこれを殺し、追撃してくる敵をまいて戦場に戻り、戦死者の遺体を回収して埋葬した[3]。 アルメニアへと逃げたエウメネスは同地の住民を味方につけて戦いを続行しようとしたが、配下の兵士の多くは彼を見捨ててアンティゴノスの許へと走った。そこでエウメネスは僅か600人の忠実な兵士(600人というのはディオドロスの挙げる数字で、プルタルコスは重装歩兵200人、騎兵500騎の計700人としている[4])と共にカッパドキアとリュカオニアの境界地帯にあるノラという難攻不落の砦に篭った。これを包囲したアンティゴノスはエウメネスと会談の場を設けて降伏を勧告したが、エウメネスは豪胆にも身の安全や放免を問題にすらせずに自身の領地の保全を要求した。これはアンティゴノスの受け入れるところならず、彼は部下にノラの封鎖を任せて主力部隊を率いて他のペルディッカス派の残党狩りへと向かった[5][4]。
その後
註^ ディオドロス, 39
^ a b ディオドロス, 40
^ プルタルコス, 「エウメネス」, 9
^ a b プルタルコス, 「エウメネス」, 10
^ ディオドロス, 41
参考文献
⇒ディオドロス、『歴史叢書』( ⇒史料室)
⇒プルタルコスの「エウメネス伝」の英訳(プロジェクト・グーテンベルク内)