オリーブの枝請願
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オリーブの枝請願という案が認められたのがこの時である[1]

オリーブの枝請願は、まずトーマス・ジェファーソンによって起草されたが、ジョン・ディキンソンは言葉遣いが攻撃的であるとして不満を持った。ディキンソンが大部分を書き直したが、結論部分だけはジェファーソンの案を採用した[2]。ディキンソンは植民地と無責任なイギリス本国の閣僚との間の問題を、「王室の信頼と権威を悪用する狡猾で残酷な敵」と非難した[3]。ディキンソンは、植民地が独立を望んではおらず、貿易と税の問題についてイギリス本国政府と話し合いをしたいだけだと訴えた。さらに国王が貿易問題を決着させる最終計画あるいは同意書を作成するよう提案した。国王の計画作成を助けるために、ディキンソンは植民地が自由貿易を許可されイギリス本国と同じ税率の課税とするか、もしくは無税として厳密に貿易を統制するかを選ぶことも提案した。請願文書は署名され7月8日にロンドンへ送られた[2]。ディキンソンはレキシントンとコンコードの流血沙汰という言葉が、謙虚な請願と組み合わされて、少なくとも国王の心に植民地の人々との交渉を行おうという気持ちを芽生えさせるものと期待していた[1]

不幸にもこの請願文書は、押収されたジョン・アダムズの文書によってその力を弱められた。ジョン・アダムズは友人に宛ててオリーブの枝請願に不満があることを書き送っていた。ジョン・アダムズの文書の中では、戦争が避けられないこと、植民地は海軍を組織しイギリスの役人を捕獲すべきと考えていることが書かれていた。この押収された文書はオリーブの枝請願と同じ時期にロンドンに着いた。イギリス本国はアダムズの文書を使って、オリーブの枝請願が不誠実なものであると非難した[2]。国王が請願を切り捨てたとしても、アメリカの独立にとってはそれが大変重要なことであった。国王の拒絶はアダムズや急進派グループにとっては独立を推進するための好機となった。オリーブの枝請願は現実には独立運動の転換点として働いた。国王が「オリーブの枝」を拒絶した後、植民地人の心にあった問題が二極化した。無条件で屈服するか、完全なる独立を勝ち取るかであった[2]
関連項目

アメリカ独立戦争

脚注^ a b Ferling, John E; A Leap in the Dark: The Struggle to Create the American Republic; Oxford [England]; New York: Oxford University Press, 2003.
^ a b c d Brown, Weldon A.; Empire or independence; A Study in the Failure of Reconciliation, 1774-1783; Port Washington, N. Y., Kennikat Press; 1966, c1941.
^ Christie, Ian R; Labaree, Benjamin W; Empire or Independence, 1760-1776: A British-American Dialogue on the Coming of the American Revolution; New York : Norton, c1976.


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