オリーブの枝請願
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請願文書は署名され7月8日にロンドンへ送られた[2]。ディキンソンはレキシントンとコンコードの流血沙汰という言葉が、謙虚な請願と組み合わされて、少なくとも国王の心に植民地の人々との交渉を行おうという気持ちを芽生えさせるものと期待していた[1]

不幸にもこの請願文書は、押収されたジョン・アダムズの文書によってその力を弱められた。ジョン・アダムズは友人に宛ててオリーブの枝請願に不満があることを書き送っていた。ジョン・アダムズの文書の中では、戦争が避けられないこと、植民地は海軍を組織しイギリスの役人を捕獲すべきと考えていることが書かれていた。この押収された文書はオリーブの枝請願と同じ時期にロンドンに着いた。イギリス本国はアダムズの文書を使って、オリーブの枝請願が不誠実なものであると非難した[2]。国王が請願を切り捨てたとしても、アメリカの独立にとってはそれが大変重要なことであった。国王の拒絶はアダムズや急進派グループにとっては独立を推進するための好機となった。オリーブの枝請願は現実には独立運動の転換点として働いた。国王が「オリーブの枝」を拒絶した後、植民地人の心にあった問題が二極化した。無条件で屈服するか、完全なる独立を勝ち取るかであった[2]
関連項目

アメリカ独立戦争

脚注^ a b Ferling, John E; A Leap in the Dark: The Struggle to Create the American Republic; Oxford [England]; New York: Oxford University Press, 2003.
^ a b c d Brown, Weldon A.; Empire or independence; A Study in the Failure of Reconciliation, 1774-1783; Port Washington, N. Y., Kennikat Press; 1966, c1941.
^ Christie, Ian R; Labaree, Benjamin W; Empire or Independence, 1760-1776: A British-American Dialogue on the Coming of the American Revolution; New York : Norton, c1976.


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