オリバー・クロムウェル
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1644年7月2日マーストン・ムーアの戦いカンバーランド公ルパートの騎兵と直面し、潰走させて武名をあげた。しかし議会軍全体はまだ弱く、全面攻勢をかけるほどの力はなかった。詳細は「マーストン・ムーアの戦い」を参照

はかばかしくない戦況を見て、議会派は軍の再編を急いで進めた。東部の諸州が連合してつくられた東部連合軍をはじめ、西部連合軍なども編成され、議会軍の組織化が進んだ。これらの再編によってただちに議会軍が精強になったわけではなく、軍の内外で様々な問題をかかえていた。議会内の見解の一致がとれていないことや、革命の目指す方向がないことなどがその主な理由であった。クロムウェルは当時、東部連合軍の騎兵隊長であった。

1645年頃には、議会軍は辞退条例制定など軍隊の編成改革を行い、優柔不断な行動で戦略に悪影響を与え続けたマンチェスター伯とエセックス伯ロバート・デヴァルーなどの指揮官は排除され、東部連合軍・西部連合軍などを統合し、議会の統制下で一元的に再編成された新しい軍をニューモデル・アーミーとした。総司令官(英語版)はフェアファクスが就任、クロムウェルはニューモデル軍結成にあたって副司令官となった。

1645年6月14日ネイズビーの戦いでは、議会軍は左翼にヘンリー・アイアトン少将、右翼にクロムウェル中将が布陣した。鉄騎隊は激しい攻撃によってじりじりと国王軍を押し返し、国王本隊に迫りつつある時、チャールズ1世は親衛隊を割いて鉄騎隊を追い払おうとした。ところがこの命令が誤って伝わり、親衛隊は後退してしまった。クロムウェルはこの隙を見逃さず、チャールズ1世の歩兵連隊を壊滅させた。いっぽう左翼でもアイアトンの部隊が攻め、国王軍は左右から挟撃され、国王軍は総崩れとなった。この戦いによって、国王軍は壊滅的な損害を被った。議会派はこの勝利をイングランド中に宣伝し、勝利を印象づけた。兵糧や大砲は議会軍に接収され、国王軍の再建は事実上不可能となった。内戦はさらに1年続いたが、国王軍は劣勢を逆転することはできず、チャールズ1世はスコットランドに亡命を余儀なくされた。だがスコットランドにも見捨てられ、議会の監視下でハンプトン・コート宮殿で軟禁状態に置かれた。詳細は「ネイズビーの戦い」および「イングランド内戦」を参照
コモンウェルス成立イングランド共和国の紋章クロムウェルのバナー

内乱の終結後、議会主流派で王室との妥協を求める長老派が議会軍の解散を要求してきたが、議会軍の中核となっていたクロムウェルの所属する独立派、及び急進的な平等派(水平派とも)は国王との妥協を許さず議会軍の解散を拒絶し、対立し始める。のみならずニューモデル軍内部でも政治改革を唱える平等派と独立派が対立、クロムウェルは婿のアイアトンと共に軍の分裂を避けるべくパトニー討論で妥協を図ったが、互いの主張が噛み合わず決裂、議会の長老派と独立派の対立も解消されなかった。

1648年にチャールズ1世はワイト島へ脱走、長老派であるハミルトン公ジェイムズ・ハミルトンと結んで「エンゲージャーズ(英語版)」を結成して再び決起し、イングランドでの主導権を取り戻そうと南下したが、同年8月にプレストンの戦いでクロムウェルは自ら出馬してエンゲージャーズを大破し、これを鎮圧した(第二次イングランド内戦)。第二次イングランド内戦後、軍はさらなる強硬策に打って出て、『プライドのパージ』とよばれる軍事クーデターを敢行して長老派を議会から全員追放し、残った50数名の議員のみからなる下院ランプ議会を承認し、イングランド共和国の樹立を宣言。ランプ議会は1649年1月にチャールズ1世の処刑(英語版)を執行した(レジサイド)。

共和国の指導者となったクロムウェルは、続けて平等派も弾圧し始め、中産市民の権益を擁護する姿勢を取るようになる。重商主義に基づいた政策を示し、同時に貴族や教会から没収した土地の再分配を行った。
アイルランド併合とスコットランド侵攻

カトリックアイルランドスコットランドは1649年から1651年にかけて反議会派の拠点であった。クロムウェルはアイルランド遠征軍司令官兼アイルランド総督に任ぜられて侵攻を始め、1649年8月にダブリンに上陸、続いてドロヘダウェックスフォードを攻め、ドロヘダ攻城戦・ウェックスフォードの略奪(英語版)などの戦闘を始め各地で住民の虐殺を行う(クロムウェルのアイルランド侵略)。アイルランドはクロムウェルの征服により、以後はイングランドの植民地的性格が強い土地となる。

1650年5月に後事を副官のアイアトンに託して帰英し、チャールズ1世の皇太子チャールズ(後のチャールズ2世)がスコットランドに上陸したのを討つため、7月にフェアファックスに代わり総司令官としてスコットランドに遠征(第三次イングランド内戦)、1650年9月3日のダンバーの戦いで王党派を蹴散らし、翌1651年9月3日のウスターの戦いでチャールズ率いるスコットランド軍も撃破、チャールズを大陸に追いやった。

1651年の「クロムウェル航海法」とよばれる航海条例の制定には、クロムウェル自身は関わっていない。しかしこれが議会を通過したことによってオランダ中継貿易を制限することになり、1652年第一次英蘭戦争英蘭戦争)の引き金になった。
護国卿としてクロムウェルの紋章

中産市民は王党派による反革命の可能性もあったため、クロムウェルの事実上の独裁を支持した。クロムウェルは1653年4月20日に軍と対立したランプ議会を解散、続けて成立させたベアボーンズ議会も急進派による改革で混乱が生じると12月12日に解散、12月16日に終身護国卿(護民官)となり、次のような対外政策を展開した。

1654年にオランダと講和し(ウェストミンスター条約(英語版))、スウェーデンデンマークポルトガルと通商条約を結ぶとともに、スペインに対する攻撃を開始し(英西戦争(英語版))、ウィリアム・ペン率いる艦隊をイスパニョーラ島に派遣、1655年ジャマイカを占領し、同年フランスと和親通商条約を結び、1657年に同盟(パリ条約)に発展させ、1658年フランス・スペイン戦争(西仏戦争)では、砂丘の戦いで英仏連合軍がスペインに勝利、ダンケルクを占領した。

一方、国内においては成文憲法である『統治章典』に基づき1654年9月3日に招集した第一議会を1655年1月22日には解散させ、全国を11軍区に分けて軍政監を派遣し、純然たる軍事的独裁を行った。だが1656年9月17日第二議会を招集、翌1657年3月に統治章典を修正した『謙虚な請願と勧告』が議会で成立すると5月に受諾し軍政監を廃止。議会によって国王への就任を2度にわたって望まれるが、これを拒否して護国卿の地位のまま統治にあたった。同年にユダヤ人の追放を解除し、これによって1290年7月18日エドワード1世による追放布告(英語版)以来350年ぶりにユダヤ人が帰還した。

1658年にクロムウェルはインフルエンザ[3]で死亡し、ウェストミンスター寺院に葬られた。跡を継いだ息子のリチャード・クロムウェルは翌1659年第三議会を召集したが軍の反抗を抑えきれず、議会解散後まもなく引退し、護国卿政は短い歴史に幕をおろした。


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