東映の成功を追って[18]、1990年代に入り他の映画会社も参入[1][3]。にっかつが1990年3月15日に「Vフィーチャー」の製作開始を発表し、その第一弾『首都高速トライアル2』は3万本売れた[19]。続いて松竹は1990年12月28日に「SHVシネマ」第1回作品、向井寛監督『女刑事サシバ』を発売し2万3000本売れた[19]。以降、大映が「新映画天国」を出し、様子を窺っていた東宝も「シネパック」を出した[19]。当時、映画会社は自社での劇場用映画の制作を減らしており、これら映画会社がオリジナルビデオをこぞって制作を始めたのは、それまでレンタルビデオのソフト供給源だった劇場用映画のVHS化作品が底を突き始めていたためという事情もあった[20]。とはいえ、外部事業者制作作品が主の東宝作品は、OVに関しても、外部受託に頼りきりで、民放キー局で唯一ビデオ会社との縁が無いテレビ東京が東宝向けの受託制作と発売を行っていた[注 1]。また、映画会社のみならず、ビデオ会社のジャパンホームビデオや『ミナミの帝王シリーズ』が有名作のケイエスエス、アダルトビデオを制作していたダイヤモンド映像の村西とおるが1990年11月、「日本ビデオ映像」を設立してオリジナルビデオの制作を開始し異様な活気と展開を見せた[19][21]。
さらには、バブル経済末期ということもあいまって、それまで映画製作に縁のなかった人々までが映画のプロデューサーに近いことをやれるということも魅力と3000万円から4000万という映画としては低予算な理由から殺到し[22]、当時全盛を迎えていたレンタルビデオ市場にオリジナルビデオが投入されていくことになった[23]。
1989年に数本だった製作本数は1990年に60本と急増[24]、1989年?1990年の二年間に19社のメーカーによってオリジナルビデオが発売された[25]。1991年には21社となり、150タイトルがリリース[25]。この1991年はVHSとベータのビデオ戦争がほぼ終わった年で[19]、VHSに統一されたことで普及率も頂点に達し、ビデオ産業の頂点の年ともいわれる[19]。1995年には150本[26]、2000年には年間製作本数が300本を越えるほどの濫造ぶりを見せた[17]。
しかし、濫作は育ちかけた市場を早期に供給過多に陥らせ、個々の商品の売り上げを落とし、その結果、粗製濫造された商品が出回り、さらに売り上げは落ちていった。