オランダ
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この連立政権は24議席を持つ極右政党の自由党閣外協力を受けた[26]。その後、2012年に再度総選挙が行われ、第1党を維持した自由民主国民党と第2党となった労働党との連立による第2次ルッテ内閣が成立した[27]

2021年12月13日、ルッテ首相率いる自由民主党など4党は2021年オランダ総選挙から約9カ月経過してようやく連立政権を組むことで合意した、選挙から合意までかかった日数は271日で、過去最長を記録した[28]

第二次世界大戦後、オランダは寛容な国風を基に福祉国家を築きあげたが、1970年代オイルショックの後は、「オランダ病」と呼ばれる不況と財政の悪化に苦しんだ。その対策として1982年ワッセナー合意が結ばれ、雇用の確保に努めながら企業の国際競争力の向上を図ったことで、1990年代には経済成長失業率の低下が実現し、「オランダ・モデル」として注目を集めた[29]。しかし、リーマン・ショックに端を発した経済危機を受けて、さらなる財政の緊縮が求められている[30]

2023年のオランダ総選挙では、「オランダのトランプ」と揶揄されるヘルト・ウィルダースが率いる自由党が勝利したが、単独で過半数を形成できた政党はなく、連立協議が難航している。自由党はオランダの欧州連合離脱まで主張しており、オランダの将来は今のところ不透明である[31]
国際関係詳細は「オランダの国際関係(英語版)」および「オランダ語連合」を参照

2018年欧州委員会によるオランダ人が他の主要国及び欧州連合に対する見解に関する調査[32]
国・地域肯定否定どちらでもない肯定-否定
 ロシア10%88%2-78
 アメリカ32%67%1-35
 中国33%62%5-29
 イギリス66%32%234
 日本74%19%755
 フランス81%16%365
 欧州連合89%10%179
 ドイツ95%4%191

欧州人権条約、ローマ法(英語版)(国際刑事裁判所)、世界人権宣言、欧州拷問防止条約(英語版)、欧州社会憲章など、関連するすべての国際人権文書(英語版)に署名している。
日本との関係出島における日蘭貿易詳細は「日蘭関係」を参照

オランダは、江戸時代鎖国下で欧州諸国で唯一外交関係を維持した国である。当時オランダを通じてもたらされた学問・技術は蘭学と呼ばれた。

1844年7月29日(天保15年)、オランダは、オランダ国王の親書を軍艦で江戸幕府に届ける旨をあらかじめ商船船長のヒイトル・アオヘルト・ヒツキから江戸幕府に通知させたうえ、8月15日、軍艦の船長ハーエス・コープスからそれを届けさせた。親書は江戸幕府が鎖国を解くよう、またオランダ船やその船員、日本人に対する待遇を改善するよう求めたもので、美術品や地図、植物図鑑、天文学書などが付されていた[33]

また、1852年9月11日にはバタヴィア(ジャカルタ)の裁判官でオランダ貿易協会(オランダ東インド会社の後身)の出島オランダ商館の館長トンクル・キュルシュスが、老中阿部正弘の許可を得た長崎奉行に、国王の命によるバタヴィア提督からの親書を届けた。親書はアメリカ合衆国が蒸気船軍艦で訪日し日本に通商を求めるらしいという風説を伝えたうえ、戦争を避けるように希望するもので[34]、開国・明治維新に向けての下地が準備、形成されることになった[35]

1873年(明治6年)には上述のとおり、岩倉使節団がオランダを訪問した。

第二次世界大戦時、日本はオランダの植民地であった蘭印(現在のインドネシア)を攻略し占領した。このことが、第二次世界大戦後のインドネシア独立の大きな要因となって、オランダは重要な植民地を失い、また戦中スマラン事件などの影響もあって、戦後は反日感情が強かった。戦後オランダ法廷は日本軍BC級戦犯に対し、アメリカ法廷・中国法廷を上回る236人に死刑判決を下した[36]。これは連合国による対日裁判で最多の数となった。オランダはサンフランシスコ平和条約を締結し、その際に賠償請求権も放棄したが、のち賠償請求を続け、1956年には「オランダとの私的請求権解決に関する議定書(日蘭議定書)」において、ジャワで拘留された元捕虜や同国民間人に与えた損害(民間人の私的請求権)について日本から補償(見舞金36億円)を受けた。詳細は「日本の戦争賠償と戦後補償」を参照

その後も反日感情は残存し、1971年昭和天皇オランダ歴訪の際には、在位中の昭和天皇はオランダ人にとって戦争犯罪人と見なされていたため市民からや魔法瓶を投げつけられるなどした。またベアトリクス女王1986年に日本訪問の計画をした際には、議会と世論の反発で中止した。

昭和天皇崩御後の1991年10月、ベアトリクス女王は歴代オランダ元首として初めて日本を公式訪問。天皇が主催した晩餐会のスピーチでは第二次世界大戦時のインドネシアにおける自国民の犠牲について言及する一方、翌年3月に開業を控えていた長崎県のテーマパーク「ハウステンボス」にも言及し、蘭日関係の親善を強調した(女王は自らの居所であるハウステンボス宮殿の忠実な再現および同名の使用を許可)。2000年5月に日蘭修好400年を記念して実現した明仁天皇と美智子皇后(いずれも肩書は当時)のオランダ訪問では、明仁天皇が晩餐会の答辞でオランダ国民の犠牲に「深い心の痛み」を述べたことが元抑留者から評価され、オランダ国内の対日感情は好転した。1990年代より従軍慰安婦問題が世界レベルで議論された際には、日本政府アジア女性基金により総額2億5,500万円の医療福祉支援を個人に対して実施した(2001年・償い事業1)。その後、2006年にはオランダは皇太子徳仁親王同妃雅子ら一家の長期静養を受け入れるなど日蘭関係の友好面を見せたが、2007年7月にアメリカ合衆国下院121号決議が採択されると、オーストラリアに続いて、11月20日にオランダ下院慰安婦問題謝罪要求決議が採択。2008年8月、オランダ駐日大使のフィリップ・ヘルは参議院内集会にて「強制があったかどうかということなど問題ではない」と述べ、「日本政府が謝罪をするべきだ」と述べた[37]。詳細は「慰安婦」を参照

オランダは対日貿易では赤字であり、2005年の貿易額は、日本からオランダへの輸出が1兆5,076億円、オランダから日本への輸入が2,439億円。2004年の直接投資は、日本からオランダが7,764億円、オランダから日本が3,164億円で、いずれもEU加盟国中第1位となっている。2019年経済産業省の調査では、日本に拠点を置くオランダ企業の数は193社であり、アメリカ、ドイツ、中国各国企業に次ぎ、外資系企業として4番目の企業数となっている[38]

また、オランダではEU域外の者が働く場合、さまざまな労働許可の手続きが必要となるが、2014年12月24日、オランダ政府は1912年に締結された日蘭通商航海条約最恵国待遇条項を根拠に、日本国籍を持つ者には「自由に労働が可能な居住許可」を交付することとなった。これにより、日本国籍の持ち主はオランダにおいて住民登録と、銀行口座を開設すれば、労働許可を申請しなくても働くことが可能となっていた。


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