オランダ
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複数のオランダの飛行場や各都市の後背に対し空挺兵を降下させて占拠[22]。奇襲作戦は成功して、オランダは1週間あまりの戦いで敗北、王族はイギリスに亡命した。その後、亡命政権は1941年に中立を破棄し日本に宣戦布告するが、東インド植民地はまもなく日本軍に占領されている。オランダ本国はドイツによる軍政が敷かれた。

この時期に、「アンネの日記」で有名となるフランク一家など多くのユダヤ人がホロコーストに遭い、強制収容所へ送られている。オランダ本土については、1944年9月に連合軍マーケット・ガーデン作戦を実施してアイントホーフェンおよびその周辺地域を解放するが、アムステルダムを含めた多くの地域の解放は、1945年春にドイツが降伏してからである。東インド植民地は夏に日本軍が撤退し、その後は再びインドネシアに侵攻してインドネシア独立戦争を戦った。

戦後国力が低下していたうえに、これまでの過酷な植民地支配に憤慨したインドネシア独立勢力を抑えることはできなかった。国際世論の支持も得られず、アメリカや国際連合の圧力もあって独立承認せざるを得なくなり、結果として国際的地位の低下を招いた。戦争の終盤、ウィレム・ドレースが首相を務めていた。

1960年から水路問題が段階的に解決された[23]

1964年、王女イレーネがカルロス・ウゴ・デ・ボルボン=パルマと結婚し、王位継承権を放棄した。2年後、ベアトリクス王女クラウス・フォン・アムスベルクと結婚し、国民から怒りを買った。1967年、アントウェルペンが運河でライン川と結ばれた[23]

1973年からの労働党連立政権において新旧両宗派が支持を失い、1980年に大合同してキリスト教民主アピールとなった。

1992年、ベネルクス3国として欧州共同体の創設メンバーとなり、欧州連合に発展させた。
オランダとアジア植民地オランダ海上帝国の最大版図

オランダは早くから世界進出し、アジアとも関わりが深い。オランダによるジャワ島を中心とするオランダ領東インド支配においては、1825?30年に起きた民衆反乱を弾圧したのち、「強制栽培制度」を1830年に実施した。これは、ジャワ農民に対し、土地の一定割合で稲作など食用の栽培を禁止し、コーヒーサトウキビといったヨーロッパ輸出用の高級作物の栽培を強制する制度で、ナポレオン戦争後のオランダ本国がおかれた経済的苦境を、打破するためのものであった。この制度により、ジャワから強制栽培品を安く買い上げ転売したオランダは経済が好転、鉄道建設をはじめ、産業革命と近代化のための資本蓄積に成功した。

厳罰によって実施されたこの制度で、ジャワ農民は稲や麦という自給食料を失い、1843?48年には飢饉に苦しみ多数の餓死者を出したと言われている。強制栽培制度は中断を伴い形を変えて20世紀まで続けられ、第二次世界大戦中の日本軍のオランダ領ジャワへの侵攻とその撤退後も解決されず、インドネシアとオランダとの独立戦争の終戦まで続いた。

オランダは東南アジアを長期にわたって植民地支配してきたが、その違法性をただす動きはほとんど見られず、植民地支配は当時の政治体制の一部として容認されていたという認識が一般的である[24]1995年ベアトリクスインドネシアを訪問し、「植民地支配はお互いに恵みを与えた」とスピーチして、インドネシア人を憤慨させた。植民地支配への謝罪はなかったが、オランダ国内で批判されることはなかった[24]ウィム・コック首相は、2000年12月に、インドネシアに対して、植民地時代のオランダの行為に関して謝罪する用意があると表明したが、国内で嵐のような世論の反発にあい、謝罪は立ち消えとなり、元軍人団体は「謝罪は独立戦争の犠牲になったオランダ兵に対する侮辱である」と猛反発した[25]。オランダは奴隷制に深く関与した国であるが、2001年のダーバン会議(英語版)で、人種差別アフリカの貧困の淵源には奴隷制と植民地主義があるとして「遺憾の念」を表明したが、賠償補償の実施には至らず、奴隷制や植民地主義に対する責任として金銭を拠出するのはふさわしくないという立場を堅持し、代替として、経済支援を通じて、アフリカの雇用健康経済を支援することを主張した[25]


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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