オランダ
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1873年(明治6年)には岩倉使節団がオランダを訪問しており、当時のロッテルダムハーグアムステルダムなどの様子が『米欧回覧実記』に、一部イラストつきで詳しく記されている[20]

19世紀後半から20世紀初頭のオランダ社会は、政治的にはカトリック・プロテスタント社会主義自由主義という4つの柱で組み立てられていった。オランダは第一次世界大戦で中立を維持したが、そのときから1960年代まで存在していたオランダの社会システムは「柱状化(verzuiling)社会」と呼ばれた。政党を中心として、企業・労組・農民・大学・銀行・マスメディアその他にわたり、徹底的に4つの柱で住み分けと縦割りがなされた[21]。(→多文化社会

1921年、ハーグに国際司法裁判所が設置された。相対的安定期、オランダのゾイデル海開発が進められた。
第二次世界大戦とその後

第二次世界大戦では中立を宣言するも1940年5月10日未明、ナチス・ドイツはオランダと隣国のベルギーに侵攻を開始した(オランダにおける戦い)。複数のオランダの飛行場や各都市の後背に対し空挺兵を降下させて占拠[22]。奇襲作戦は成功して、オランダは1週間あまりの戦いで敗北、王族はイギリスに亡命した。その後、亡命政権は1941年に中立を破棄し日本に宣戦布告するが、東インド植民地はまもなく日本軍に占領されている。オランダ本国はドイツによる軍政が敷かれた。

この時期に、「アンネの日記」で有名となるフランク一家など多くのユダヤ人がホロコーストに遭い、強制収容所へ送られている。オランダ本土については、1944年9月に連合軍マーケット・ガーデン作戦を実施してアイントホーフェンおよびその周辺地域を解放するが、アムステルダムを含めた多くの地域の解放は、1945年春にドイツが降伏してからである。東インド植民地は夏に日本軍が撤退し、その後は再びインドネシアに侵攻してインドネシア独立戦争を戦った。

戦後国力が低下していたうえに、これまでの過酷な植民地支配に憤慨したインドネシア独立勢力を抑えることはできなかった。国際世論の支持も得られず、アメリカや国際連合の圧力もあって独立承認せざるを得なくなり、結果として国際的地位の低下を招いた。戦争の終盤、ウィレム・ドレースが首相を務めていた。

1960年から水路問題が段階的に解決された[23]

1964年、王女イレーネがカルロス・ウゴ・デ・ボルボン=パルマと結婚し、王位継承権を放棄した。2年後、ベアトリクス王女クラウス・フォン・アムスベルクと結婚し、国民から怒りを買った。1967年、アントウェルペンが運河でライン川と結ばれた[23]

1973年からの労働党連立政権において新旧両宗派が支持を失い、1980年に大合同してキリスト教民主アピールとなった。

1992年、ベネルクス3国として欧州共同体の創設メンバーとなり、欧州連合に発展させた。
オランダとアジア植民地オランダ海上帝国の最大版図

オランダは早くから世界進出し、アジアとも関わりが深い。オランダによるジャワ島を中心とするオランダ領東インド支配においては、1825?30年に起きた民衆反乱を弾圧したのち、「強制栽培制度」を1830年に実施した。これは、ジャワ農民に対し、土地の一定割合で稲作など食用の栽培を禁止し、コーヒーサトウキビといったヨーロッパ輸出用の高級作物の栽培を強制する制度で、ナポレオン戦争後のオランダ本国がおかれた経済的苦境を、打破するためのものであった。この制度により、ジャワから強制栽培品を安く買い上げ転売したオランダは経済が好転、鉄道建設をはじめ、産業革命と近代化のための資本蓄積に成功した。

厳罰によって実施されたこの制度で、ジャワ農民は稲や麦という自給食料を失い、1843?48年には飢饉に苦しみ多数の餓死者を出したと言われている。強制栽培制度は中断を伴い形を変えて20世紀まで続けられ、第二次世界大戦中の日本軍のオランダ領ジャワへの侵攻とその撤退後も解決されず、インドネシアとオランダとの独立戦争の終戦まで続いた。

オランダは東南アジアを長期にわたって植民地支配してきたが、その違法性をただす動きはほとんど見られず、植民地支配は当時の政治体制の一部として容認されていたという認識が一般的である[24]1995年ベアトリクスインドネシアを訪問し、「植民地支配はお互いに恵みを与えた」とスピーチして、インドネシア人を憤慨させた。


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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