オランダ
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このため、オランダの近代史は、通常、オランダ連合州がスペインからの独立を宣言した1579年から始まる[19]。しかし、戦争の長期化により、カトリック教徒の多かった南部10州(現在のベルギールクセンブルク)は、独立戦争から脱落した。この八十年戦争の結果、1648年のヴェストファーレン条約で独立を承認された。

17世紀初頭以来、ネーデルラント連邦共和国東インドを侵略してポルトガルから香料貿易を奪い、オランダ海上帝国を築いて黄金時代を迎えた。英蘭戦争に重なってオランダ侵略戦争が起こり、本土へ災禍をもたらした。しかしウィレム3世総督時代に、ルイ14世の出したフォンテーヌブローの勅令が中産ユグノーを共和国へ大挙亡命させた。彼らの力により、独立戦争からすでに卓越していた繊維・染料産業がさらに進歩した。加えてデルフトの陶器とアムステルダムのダイヤモンド加工も世界に知られた。ウィレム3世は名誉革命でイギリスへ渡った。

フランス革命が勃発すると、革命軍が侵入しバタヴィア共和国が成立した。バタヴィアは1806年、ナポレオンの弟ルイ・ボナパルトを国王とするホラント(オランダ)王国に変えられた。さらに1810年フランスの直轄領として併合された。
19世紀から二次大戦まで

ナポレオン戦争後のウィーン会議ではこれまでオーストリア領であった南ネーデルラント(現在のベルギー・ルクセンブルク)を含むネーデルラント王国が成立し、オラニエ=ナッサウ家が王位に就いた。

オランダ全土の労働者人口と南ネーデルラント農民の大部分はカトリック信者であった。南ネーデルラントを統合しようとするとき、王に対しカトリックの聖職者はウィレム1世と憲法に反対した。オランダは残された東インド植民地(オランダ領東インド、今日のインドネシア)で過酷な搾取を行った。

1830年、カトリックと自由主義者による独立戦争が起こる。1839年、オランダはベルギーの独立を承認した。

1873年(明治6年)には岩倉使節団がオランダを訪問しており、当時のロッテルダムハーグアムステルダムなどの様子が『米欧回覧実記』に、一部イラストつきで詳しく記されている[20]

19世紀後半から20世紀初頭のオランダ社会は、政治的にはカトリック・プロテスタント社会主義自由主義という4つの柱で組み立てられていった。オランダは第一次世界大戦で中立を維持したが、そのときから1960年代まで存在していたオランダの社会システムは「柱状化(verzuiling)社会」と呼ばれた。政党を中心として、企業・労組・農民・大学・銀行・マスメディアその他にわたり、徹底的に4つの柱で住み分けと縦割りがなされた[21]。(→多文化社会

1921年、ハーグに国際司法裁判所が設置された。相対的安定期、オランダのゾイデル海開発が進められた。
第二次世界大戦とその後

第二次世界大戦では中立を宣言するも1940年5月10日未明、ナチス・ドイツはオランダと隣国のベルギーに侵攻を開始した(オランダにおける戦い)。複数のオランダの飛行場や各都市の後背に対し空挺兵を降下させて占拠[22]。奇襲作戦は成功して、オランダは1週間あまりの戦いで敗北、王族はイギリスに亡命した。その後、亡命政権は1941年に中立を破棄し日本に宣戦布告するが、東インド植民地はまもなく日本軍に占領されている。オランダ本国はドイツによる軍政が敷かれた。

この時期に、「アンネの日記」で有名となるフランク一家など多くのユダヤ人がホロコーストに遭い、強制収容所へ送られている。オランダ本土については、1944年9月に連合軍マーケット・ガーデン作戦を実施してアイントホーフェンおよびその周辺地域を解放するが、アムステルダムを含めた多くの地域の解放は、1945年春にドイツが降伏してからである。東インド植民地は夏に日本軍が撤退し、その後は再びインドネシアに侵攻してインドネシア独立戦争を戦った。

戦後国力が低下していたうえに、これまでの過酷な植民地支配に憤慨したインドネシア独立勢力を抑えることはできなかった。国際世論の支持も得られず、アメリカや国際連合の圧力もあって独立承認せざるを得なくなり、結果として国際的地位の低下を招いた。


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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