オランダ東インド会社
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イギリスは東南アジアから撤退し、インドの植民地経営に専念することになり、ムガル帝国攻略に向かう転換点となった。

1628年から1629年にかけて、ジャワ島でマタラム王国がバンテン王国への進出を目指し、2度に渡ってバタヴィアに侵攻したが撃退した。

1646年に、マタラム王国と平和協定を締結し、ジャワ島でマタラム王国と独占貿易をすることになった。

また日本やタイとの交易も手がけ、中国に拠点をもつことは認められなかったが、当時無主の地であった台湾を占拠し、対中貿易の拠点とした。南アジアでは主としてセイロン島のポルトガル人を追い払い、島を支配した。日本ではカトリックとスペイン・ポルトガルのつながりに警戒感を強めていた江戸幕府に取り入り島原の乱制圧を支援するなどして、ポルトガルの追い落としに成功、鎖国下の日本で欧州諸国として唯一、長崎出島での交易を認められた。アジアにおけるポルトガル海上帝国はオランダ東インド会社の攻勢によって没落した。

フランスは同盟国のオランダに触発されてフランス東インド会社を設立したが、オランダとの競合を避けインド貿易に専念した。

なお、オランダ東インド会社が日本に進出した時点で、すでにポルトガルが日本との貿易を行っており、オランダ側は貿易品を充分に確保できなかった。結果、オランダは「私掠」としてポルトガル船などを襲う挙に出ていた[1]。だが、東アジアでは私掠の概念は通用せず、江戸幕府からは1621年に海賊行為を禁止する禁令を出されるなど、オランダの貿易独占が成立する以前には海賊として認識される有様であった[2]

スペイン、ポルトガルでユダヤ人は改宗が強制され、異端審問などでひどい扱いを受けていた。そこから追放されたユダヤ人はアムステルダムなど各地に散在。ユダヤ人は商人などが多いので、東インド会社もユダヤ人が関係している。日本からのポルトガルの排斥はその意味からも非常に重要なポイントである。

1643年、オランダ東インド会社に所属するマルチン・ゲルリッツエン・フリースは、東インド総督の命を受けて日本の東方沖にあるとされた金銀島探検のために結成された第2回太平洋探検隊の司令官として太平洋を北上し、ヨーロッパ人で初めて択捉島得撫島を発見した。そして、それぞれスターテン・ラント(オランダ国の土地)とコンパニース・ラント(オランダ東インド会社の土地)と命名して領土宣言をした[3]

1643年、カンボジアに留まっていた会社員たちが惨殺され、会社は短期間の戦争の後、1670年代までにカンボジアの交易地を放棄した(カンボジア・オランダ戦争)。

1648年、八十年戦争が終わり、ネーデルラント連邦共和国ヴェストファーレン条約によりスペインから独立しオランダ黄金時代が築かれると、1652年の英蘭戦争が始まるなか、17世紀の世界最大の営利会社となった[注釈 3]

1660年よりオランダ東インド会社は、スラウェシ島のマカッサル西海岸でゴワ王国(英語版)との戦争に突入し、1669年にコルネリス・スペルマン(英語版)提督が、スルタンのハサヌディン(英語版)に、オランダ東インド会社のスラウェシ島支配に関するボンガヤ条約(英語版)を署名させた。

1665年から1667年にかけての第二次英蘭戦争で、バンダ諸島東インド諸島モルッカ諸島)にあるラン島香辛料貿易)とニューアムステルダム毛皮貿易)の自治権と交換して獲得し、香辛料貿易(ナツメグクローブ等)の独占を図った。イギリスは既に種子を持ち出しており、1815年頃からモーリシャスグレナダなどでプランテーションを開始すると、香辛料はありふれた商品となってバンダ諸島の価値は相対的に下がっていくことになった。

18世紀には3度に渡るジャワ継承戦争(1703年・1719年・1749年)や華僑虐殺事件によって、マタラム王国が四分割され、ジャワ島での支配体制も確固たるものとなった。

オランダ本国は、オランダ東インド会社が17世紀の成功によって黄金時代を迎えていた一方で、衰微の兆しが訪れていた。

17世紀半ばの3次にわたる英蘭戦争絶対主義フランス王国との戦争で国力を消耗し、1689年にヴィレム3世がイギリス王に迎えられた後は、イギリス東インド会社に植民地帝国の座を譲り渡した。以後イギリスが大英帝国として、海上覇権を確立する事になる。

1795年にはフランス革命軍により本国を占領された。この混乱のなかで1799年12月31日、オランダ東インド会社は解散、海外植民地はフランスと対抗するイギリスに接収された。ナポレオン戦争後、オランダは無事にイギリスから返還された東インドの領域経営(インドネシア)に主として専念することになる。
組織構造[ソースを編集]
最初の株式会社[ソースを編集]

イギリス東インド会社が航海ごとに資本を集め利益を清算していたのに対し、VOCは最初から株式を発行して多額の資本を集めていたことから、しばしば「世界最初の株式会社」と呼ばれる[5]中野常男は株式会社を特徴づける指標として、(1)全社員の有限責任制、(2)会社機関の存在、(3)譲渡自由な等額株式制、(4)確定資本金制と永続性(継続性)の4点を挙げ、オランダ東インド会社は「これら四つの指標が示す会社形態上の特質をともかく具備するに至った」ことで株式会社の起源とされた、としている[6]


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