オランダの歴史(オランダのれきし)では、北欧のネーデルラント(オランダ語: Nederland、英語: Netherlands; オランダ)王国の域内で展開した歴史について解説する。なお、「オランダ」はネーデルラント連邦共和国・ネーデルラント王国の日本における通称なので、以下の本文ではこの地域をネーデルラントと呼ぶ。
前史紀元前50年 地理図
(茶色の部分は沼地等)
古代のネーデルラント(低地地方)はライン川下流以南がローマ帝国領、以北はフランク人やフリース人などが住むゲルマン系諸族の土地であった。森林が多い低地帯で、バタウィ族やフリース族などが共存していた。
ローマ帝国120年頃 ローマ帝国
ネーデルラント(低地地方)は紀元前58年、ガイウス・ユリウス・カエサルが率いるローマ帝国軍の侵攻を受け、ローマ帝国領最北端の地域に編入された(ガリア戦争)。ただし、帝国軍はネーデルラント北部のフリースラント地方の大部分は平定することが出来なかった。帝国はライン川を帝国領北端の国境線として、低地ゲルマニア属州の辺境を守る砦や町を造った。これらの中で重要だった町は、現在のユトレヒト、ナイメーヘン、マーストリヒトである。また、この時初めて文字がこの地にもたらされた。
以前からこの地に住んでいたバタウィ族とローマ帝国の関係は当初は良好なものであり、次第にローマ文化が浸透してゆき、土着の神を奉るローマ風の寺院なども造られた。また、北海で産出される塩も重要な交易商品として帝国各地へ運ばれた。69年には、皇帝ネロの自殺に伴う帝国内の混乱に乗じる形で、ガイウス・ユリウス・キウィリスが首謀したバタウィ族の反乱(革命)が発生した。70年に新皇帝ウェスパシアヌスが実権を握り帝国内の混乱を収める中で、バタウィ族の反乱に対してもローマ軍団を派遣してこれを平定した。以後この地にはローマ軍団が常駐するようになった。
その後ローマ帝国が分裂し、この地を治めるのは西ローマ帝国となるが、帝国の勢力が衰えるとともにこの地域も衰退していったと思われる。 4世紀以降の民族移動時代には、ネーデルラントは多くのゲルマン人の通過経路となった。なお、この時代の記録はほとんど残されていない。北のフリース人、南のフランク人、東のサクソン人の勢力圏に囲まれていたと考えられている。 民族大移動期にローマ帝国はフランク人のサリ族を傭兵として利用するためにフォエデラティの資格でネーデルラント南部のトクサンドリアに入植させたが、西ローマ帝国の衰退にともない、サリ族入植地から発展して成立したフランク王国に、ネーデルラント全体が取り込まれていった。フランク王国の初代国王クローヴィス1世がカトリックに改宗したことにより、ネーデルラントにもキリスト教がもたらされた。 フランク王国の史料によれば、7世紀から8世紀においても、ネーデルラント北部からドイツ北部の海岸線に沿った地域はフリースラント王国が独立を保っており、その中心地はユトレヒトであった。734年のボールンの戦いでフランク王国がフリースラント王国を破り、現在のフリースラント州付近までがフランク王国の領土となった。その後、785年にザクセン公ヴィドゥキントがカール大帝に降伏し、ネーデルラントは完全にフランク王国の領土となった。この時点でのフランク王国の中心地は、現在のベルギーと北フランス一帯であった。 843年にフランク王国が西フランク王国、中フランク王国、東フランク王国に分裂すると、ネーデルラントは中フランク王国に属することになった。その後、中フランク王国は再度分裂し、ネーデルラント(現在のオランダ語圏)は東フランク王国に吸収される。 800年頃から1000年頃にかけては、激しいヴァイキングの侵攻に晒された。841年から873年にかけてはネーデルラントの大部分が占領され、ロリック
民族大移動時代
フランク王国843-870年 フランク王国
(分割後)
神聖ローマ帝国「リエージュ司教領」も参照1000年 神聖ローマ帝国
10世紀から11世紀にかけては神聖ローマ帝国がネーデルラントを支配した。ナイメーヘンが皇帝の重要な滞在場所となるとともに、ユトレヒトが重要な商業港となった。ナイメーヘンでは何人かの皇帝が誕生し、そして死去した。1100年頃まで大部分の西ネーデルラント(現在の北ホラント州と南ホラント州付近)は未開の土地であった。1000年頃よりフランドル地方やユトレヒトの農民がこれらの沼地を購入し、排水して耕作地に変えていった。これらの土地は12世紀にはホラントと呼ばれるようになった。また、1000年ごろから農業技術の急速な発展に伴い、食糧増産が可能となった。それに伴い、人口も増加し商業も発展した。ギルドの形成や市場の設置も行われるようになった。通貨の導入も行われ、商業はますます盛んになった。このころのネーデルラントでは十字軍への参加も盛んに行われるようになっていた。
フランドル地方やブラバント地方では町が急速に発展し、領主から都市権を含む様々な権利を得るようになる。自治権などを持つ発展した街は、まるで独立国のようになっていった。このころ最も発達した街はブルージュとアントウェルペンであった(どちらも現在のベルギーの都市)。また、帝国内でそれぞれの領地を治めていた領主も帝国からの独立性を高めていった。神聖ローマ帝国はもはや各地を直接統治する権限を行使することが出来なくなり、単なる名目上のものになってしまった。ネーデルラントはホラント伯、ゼーラント伯、エノー伯、ヘルダーラント伯、ユトレヒト司教がそれぞれ治め、神聖ローマ帝国の宗主権下に入る形となった。また、フリースラントとフローニンゲンは半独立を保っていた。
ブルゴーニュ領ネーデルラント「ブルゴーニュ領ネーデルラント」および「ネーデルラント17州」も参照