オラニエ=ナッサウ家(蘭: Huis Oranje-Nassau)は、現在のオランダ王家。元はドイツ西部のライン地方を発祥とする諸侯の家系であるナッサウ家の支流である。ネーデルラント連邦共和国時代には、総督の地位をほとんど独占した。 ナッサウ家のうちナッサウ=ディレンブルク伯オットー1世 (en オラニエ公ウィレム1世は八十年戦争において中心的指導者となり、その子孫からも優れた軍事指導者を輩出して、オランダの独立と発展に貢献した。ウィレム1世と兄に協力したナッサウ=ディレンブルク伯ヨハンおよび彼らの子孫は、ネーデルラント連邦共和国各州の議会あるいは連邦議会が任命する総督(統領)職をほとんど世襲し、君主に近い地位を占めた(歴代のオラニエ公は、連邦の7州の中心的存在であるホラント州の他4?5の州の総督を兼ね、残りの州の総督はヨハンの家系が占めた)。 総督・オラニエ公ウィレム3世が名誉革命によりイングランド=スコットランド王位につくと、1代限りではあったが事実上の同君連合が成立した。ウィレム4世以降は全州の総督を兼ね、その地位を世襲することが公式に認められた。 フランス革命が起こるとオランダにも余波は及び、フランス軍の侵攻を受けて連邦共和国は崩壊し、ウィレム5世は総督の座を追われた。すでにオラニエ=ナッサウ家と共和国の政治体制に対して国民の不満が渦巻いており、フランスの侵攻はオラニエ=ナッサウ家追放の絶好の機会であった。以後ナポレオン1世の没落まで、オランダはフランスの支配を受けた。当初フランスは解放者として受け入れられていたが、ナポレオンがフランス皇帝となると、次第に不満が募って行き、オラニエ=ナッサウ家の復権の機会を与えてしまうこととなった。 ウィーン会議によって南ネーデルラントを併せたオランダ王国(ネーデルラント連合王国)が成立すると、かつての総督の子孫は立憲君主国の国王として君臨し、現在に至っている。なお、南ネーデルラントは1830年にベルギー王国として独立した。また、オランダ王はルクセンブルク大公を兼ねていたが、1890年に同君連合を解消し、ルクセンブルク大公はナッサウ家の別系統であるナッサウ=ヴァイルブルク家(英語版
歴史
オラニエ=ナッサウ家の成立まで
オランダ総督からオランダ国王へ
オラニエ=ナッサウ家当主
オラニエ(オランジュ)公
ウィレム1世(1544年 - 1584年)オランダ総督
フィリップス・ウィレム(1584年 - 1618年 ウィレム1世の息子
マウリッツ(1618年 - 1625年)フィリップス・ウィレムの弟、オランダ総督
フレデリック・ヘンドリック(1625年 - 1647年)マウリッツの弟、オランダ総督
ウィレム2世(1647年 - 1650年)フレデリック・ヘンドリックの息子、オランダ総督
ウィレム3世(1650年 - 1702年)ウィレム2世の息子、オランダ総督、イングランド王、スコットランド王、アイルランド王
ヨハン・ウィレム・フリーゾ(1702年 - 1711年)オランダ総督
ディレンブルク伯ヨハン6世の玄孫、祖母はウィレム2世の妹