オムリ
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アラムには敗れて領土を喪失し、サマリアに彼らの市場を作られたことがあるらしい[7](『列王記』上20:34)。

モアブ地方の制圧には成功して、子羊10万匹と雄羊10万匹の羊毛を貢物に納めさせていた(『列王記』下3:4、およびメシャ碑文より)。

なお、在位期間が7日間と短すぎるジムリ以外では、オムリは統一時代を含むイスラエルとユダの王のうちで唯一父親の名が不詳の王である[8]。これについてロンドン大学アッシリア学名誉教授のドナルド・ワイズマンはオムリが卑賎もしくは領土を持たない出自であったが、ジムリ(戦車隊の司令官)より上位の階級(最高司令官)になった人物だろうとしている[9]。ただし、その当時彼本人の名前が知られてなかったわけではなく、アッシリアやアラムなどからは北イスラエル王国を指すのに「オムリの家」という表現が見られる[10]
脚注[脚注の使い方]^ なお、以下の記述で「北イスラエル」と表記してある部位は、原文ではすべて「イスラエル」表記である。
^ 『列王記』上16:8-10
^ この宣言はあくまで支持者たちのもので、列王記の筆者はこの時点ではオムリを王とみなしていない。
^ 『列王記』上16:15-18
^ 『列王記』上16:21-23、28
^ この「悪」は「ヤハウェに対して忠実ではない(=異教の神への信仰も行ったり、ヤハウェに対してでも偶像崇拝的な行為など)」の意味で列王記に何度か登場する表現である。
^ 原文はアハブに対し「貴方の父」という記述でオムリの名前は出てこない。このため「父」はオムリではなく「以前のイスラエル王」の意味で、バシャがアラムの王ベン・ハダトに敗れたことを指しているという説をドナルド・ワイズマン教授は上げている(ドナルド・J・ワイズマン『ティンデル聖書注解 列王記』吉本牧人訳、いのちのことば社、2009年、P210)。
^ 先王の息子など出自が分かっている王は省かれている者もいるが、新王朝を築いた王は彼以外「キシュにはサウルという名の子があった」「ダビデは(中略)エッサイという名の人の子」「ネバトの子ヤロブアム」などと父の名前が明記されている。
^ ドナルド・J・ワイズマン『ティンデル聖書注解 列王記』吉本牧人訳、いのちのことば社、2009年、P187
^ テル・ダン石碑黒色オベリスクなど。「○○の家」とはこの時代のこの地域で用いられていた慣用句で、○○が人名であれば国家や王朝(通常は開祖の王の名前が○○となる)を意味し、神名であれば神殿を表す慣用句となる。

参考文献

『新聖書辞典』いのちのことば社、1985年










古代イスラエルの王
イスラエル王国

サウル前1000-前961

イシュ・ボシェテ前1000

ダビデ前1000-前962

ソロモン前962-前922

レハブアム前922

ユダ王国

レハブアム前922-前915

アビヤム前915-前913

アサ前913-前873

ヨシャファト前873-前849

ヨラム前849-前842

アハズヤ前842

アタルヤ前842-前837

ヨアシュ前837-前800

アマツヤ前800-前783

ウジヤ前783-前742

ヨタム前742-前735

アハズ前735-前715

ヒゼキヤ前715-前687

マナセ前687-前642

アモン前642-前640

ヨシヤ前640-前609

エホアハズ前609

エホヤキム前609-前598

エホヤキン前598

ゼデキヤ前597-前587

北イスラエル王国

ヤロブアム1世前922-前901

ナダブ前901-前900

バシャ前900-前877

エラ前877-前876

ジムリ前876

オムリ前876-前869

アハブ前869-前850

アハズヤ前850-前849

ヨラム前849-前842

イエフ前842-前815

ヨアハズ前815-前801

ヨアシュ前801-前786

ヤロブアム2世前786-前746

ゼカリヤ前746

シャルム前745

メナヘム前745-前738

ペカフヤ前738-前737

ペカ前737-前732


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