オバケのQ太郎
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^ のちの小山田つとむ
^ 藤本の結婚披露宴におけるつのだじろうの発言によるとされるが、つのだ自身は覚えていないと言う。
^ 『二人で少年漫画ばかり描いてきた』(文春文庫)、228頁に第1回の1週間前に次号予告を出す時点でタイトルが決まったと記されていることから。
^ 「オバQのタイトルの由来は小田急から」というジョークがよく語られるが、『スタジオボロ物語』の作中には「タイトルの由来は小田急」とは記されていない。TBSにて2008年4月12日放送の番組『ブロードキャスター』におけるインタビューで藤子?は「小田急」と「オバQ」をかけた発言をしているが、前述の通り著書では安部公房の書籍から採ったと語っている。
^ 誌面クレジットの発行日は2月2日。
^ 反応が全くなかった事について藤子不二雄の二人は「『オバQ』はあらためて面白いと言う必要もないほど読者にウケていた」と解釈している(『小学館版 学習まんが人物館 藤子・F・不二雄』より。なお、この伝記漫画には「実際は1966年11月に描かれたオバQの最終回を1964年2月に描いたものとして描写」「1964年に久々に合作をしようと言い合って描いたオバQが最後の合作(実際には1976年まで多数の合作が描かれている)」等の事実誤認が複数ある)。
^ 『週刊少年マガジン』にて、藤子不二雄の週刊連載『サンスケ』が2月から開始されており、こちらのストーリーは安孫子が担当した。
^ 10月号からは『ゲームセンターあらし』が2番手の位置を多く占めるようになった。
^ 10分弱の短編をオムニバス形式で繋げて途中入場者や長編の鑑賞に耐えられない児童でも鑑賞できるように企画された方式。
^ まんだらけなど大手の競売で関連資料が出品されている。
^ 2024年2月19日時点で本項に記載されていた掲載号のうち、藤子・F・不二雄大全集に記載されていない号および、掲載誌が確認できなかった号は非表示コメントとしてソース内に記載した。
^ 1965年1?7月号は早見利一画。1966年8月号は藤子以外による作画。1967年7月号?は篠田ひでお画で連載継続。
^ 1966年11月号は藤子以外による作画。1967年3?12月号は篠田ひでお画で連載継続。
^ 1973年3月号は木村雅俊画。
^ 1966年11月号は松山しげる画。1967年3月号?1968年6月号まで松山しげる画で連載継続。
^ 1966年7月号は松山しげる画。1967年3月号?1967年11月号まで松山しげる画で連載継続。
^ 1973年3月号は松山しげる画。
^ 1966年7月号は松山しげる画。1967年3月号?1968年3月号まで松山しげる画で連載継続。
^ 1973年3月号はヨシダ忠画。
^ 1966年11月号は再録。12月号?1967年8月号まで松山しげる画で連載継続。
^ 1965年1?3月号は『小学六年生』と同内容を掲載。1966年6月号は再録。11月号?1967年3月号まで藤子以外の作画で連載継続。
^ 1965年1?3月号は『小学五年生』と同内容を掲載。1966年7月号は再録。11月号?1967年3月号まで藤子以外の作画で連載継続。
^ 収録作と表紙を描き下ろし。3巻(1966年)の収録作は藤子以外が作画。
^ 1972年10月号は安井康二画。
^ ゴンスケを『21エモン』『ゴンスケ』のキャラクターと換算するなら14作品。
^ 1969年に刊行された虫コミックス版について藤本は「うちには1冊しか残っていない」と後年語っていた(『文藝春秋』1994年2月増刊号でのよしもとばななとの対談より)。
^フランス」の場面では、『おそ松くん』のイヤミが登場している。
^ 独立後に権利が分割されたため「藤子・F・不二雄」の単独名義となったが、雑誌連載時には安孫子も作画を担当した合作である。
^ 『Neo Utopia』vol.40 p.51 ブッキング・左田野渉インタビュー
^ 執筆は石森と安孫子が主に行い、藤本はキャラクターデザインの一部を担当した。
^ 鈴木伸一のペンネーム。

出典^ 「まんだらけ12」(1996年)P.22
^ NHK『ザ・ライバル「少年サンデー・少年マガジン物語」』
^ a b 藤子不二雄『スタジオボロ物語
^アサヒ芸能』2002年9月5日号の藤子?へのインタビュー記事などでも同様の内容が本人から語られている。
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