アニメ化とオバQブーム
1965年8月29日 アニメ放送開始
翌1965年からテレビアニメが放送され、「オバQブーム」と呼ばれる社会現象を巻き起こした。それまではヒーローものを得意とする作家の印象も強かった藤子は、これを機に「ギャグの藤子不二雄」として社会的に認知されるようになった。『鉄腕アトム』以来、それまで主流だったSFヒーローものが飽きられて視聴率が低下した中で、日本初のギャグアニメ『オバケのQ太郎』は登場。TBS系「不二家の時間」枠(日曜19時30分 - 20時)で放送され、初回から視聴率30%以上の人気を得た(詳細は「オバケのQ太郎_(アニメ)#第1作」を参照)。
主題歌のヒット
アニメ主題歌の『オバケのQ太郎』はミリオンセラーを記録[7]し、1966年第8回日本レコード大賞童謡賞を受賞。また声優の曽我町子が歌う『オバQ音頭』はレコード200万枚、スポンサーの不二家が行ったプレミアムキャンペーンでソノシート400万枚の大ヒットとなり[8]、レコードはジャケットと価格に若干の変更がなされつつ、1980年代まで同一の規格番号(SCS-4)で生産され続けるというロングラン商品となった(初期盤のジャケットに掲載されていた2ページのカラー漫画[9]が、後期盤では削除されている[10])。そしてアニメソングにおける音頭曲の先駆けとなり、現在でも子供向け音頭曲の定番のひとつとして親しまれている。1973年に発売されたコンパクト盤「実用ベスト4シリーズ・4大音頭」では、「東京音頭」「炭坑節」「相馬盆踊り」とともに「オバQ音頭」が収録されている。
キャラクタービジネス
本作の商品化業務は、漫画連載を行っていた小学館が担った。これは、放映局のTBSから「オアシのないものがオアシ(銭)を稼ぐはずがない」と否定的な見解が下され、関係各社でも同様の判断が下されたことにより、放映当初は商品化する会社がほとんどいなかったためである。ところが放映開始から半年ほどで人気が爆発。巨額の商品化収入によって潤った小学館が1967年に建築した本社ビルは「オバQビル」とも呼ばれるようになった[11]。この小学館ビルが2013年に解体を控えた際、壁に漫画家たちが落書きをしたイベントでは、本来Q太郎の作画を担当した藤本(既に他界)に代わって安孫子(藤子Ⓐ)がQ太郎のイラストを書きサインを添えていた[12]。本作で培った小学館のキャラクタービジネスのノウハウは、後年の『ドラえもん』、『名探偵コナン』、『ポケットモンスターシリーズ』などでも生かされている[13]。
痛ましい事故
ブームの喧騒の一方で、子供たちの間で流行した「オバQごっこ」(白いビニール袋を被って遊ぶ)により女児が窒息死するという事故が起きている。当時の関係者らはこの遊びに関して注意を呼びかけた[14]。
連載とアニメの『パーマン』への移行
1966年秋 人気継続の中のスポンサーの要望
アニメの放送開始から1年以上が経過しても人気は衰えることなく、テレビアニメも30%を超える高視聴率を継続していたが(円谷プロダクション制作の『ウルトラQ』『ウルトラマン』と共にTBSの日曜夜7時台は、他局から「恐怖のQQタイム」と呼ばれていた)、スポンサーの不二家から「オバQ商品の売れ行きはピークに達した。これ以上の売上は見込めないので、新しいキャラクター(の番組)にしてくれ」という強い要望が出たため[15]、本作の連載とアニメ放送は新しい作品に切り替えることになった。