オバケのQ太郎
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また、幸森軍也著・鈴木伸一監修『ゼロの肖像 「トキワ荘」から生まれたアニメ会社の物語』(講談社、2012年)では、上記の説にも触れつつ、○の部分を決めたきっかけとして「書店で藤本が見かけた魯迅の『阿Q正伝』」が紹介されている(また、同作の主人公「阿Q」という名称は日本語の感覚では、「Qちゃん」のようなイメージとなる(当該項目参照))。
連載第1回の執筆
1964年1月9日
[3] 連載第1回の締切日
藤本が執筆した漫画作品『スタジオボロ物語』には、連載第1回の締切日に藤本と安孫子が小田急線で通勤中にオバQの新連載のアイデアを相談する場面が出てくる[注 5]作中では「定着型」と「放浪型」のどちらにするかを相談する様子や、正ちゃん、伸ちゃん、ゴジラの名前がこの日に決まる様子が描かれているが、『スタジオボロ物語』はあくまでも事実をモデルに創作した娯楽作品であり、事実が日付が正確に描かれているわけではない(連載第1回にゴジラは「ユウちゃん」の呼称で登場。伸ちゃんは未登場)。
短期連載の開始と終了
1964年1月22日?3月18日 新連載の開始と第9回での連載終了
1964年1月22日発売の『週刊少年サンデー』6号[注 6]にて漫画の連載が開始された。もともと7回の短期連載の予定[5]だったため、読者の反応はまったくないまま、連載は9回でいったん終了した。連載中は藤子もスタジオゼロを救うための仕事としてあまり力が入らず、周囲の期待もなかったという。
長期連載と掲載誌の拡大
1964年6月頃 連載再開
連載終了後読者から再開を求める手紙が殺到し(藤子は連載終了後の1か月後に編集者がハガキを持って現れたと語っている
[6])、3か月後に連載が復活[注 7]。再開後は、藤本が基本的にストーリーを担当するようになった[注 8]
1964年12月 掲載誌の拡大
人気上昇により、小学館の他の雑誌『小学一年生』?『小学六年生』、『よいこ』『幼稚園』等の多くの雑誌に連載が拡大した。


アニメ化とオバQブーム
1965年8月29日 アニメ放送開始
翌1965年からテレビ
アニメが放送され、「オバQブーム」と呼ばれる社会現象を巻き起こした。それまではヒーローものを得意とする作家の印象も強かった藤子は、これを機に「ギャグの藤子不二雄」として社会的に認知されるようになった。『鉄腕アトム』以来、それまで主流だったSFヒーローものが飽きられて視聴率が低下した中で、日本初のギャグアニメ『オバケのQ太郎』は登場。TBS系「不二家の時間」枠(日曜19時30分 - 20時)で放送され、初回から視聴率30%以上の人気を得た(詳細は「オバケのQ太郎_(アニメ)#第1作」を参照)。
主題歌のヒット
アニメ主題歌の『オバケのQ太郎』はミリオンセラーを記録[7]し、1966年第8回日本レコード大賞童謡賞を受賞。また声優の曽我町子が歌う『オバQ音頭』はレコード200万枚、スポンサーの不二家が行ったプレミアムキャンペーンでソノシート400万枚の大ヒットとなり[8]、レコードはジャケットと価格に若干の変更がなされつつ、1980年代まで同一の規格番号(SCS-4)で生産され続けるというロングラン商品となった(初期盤のジャケットに掲載されていた2ページのカラー漫画[9]が、後期盤では削除されている[10])。そしてアニメソングにおける音頭曲の先駆けとなり、現在でも子供向け音頭曲の定番のひとつとして親しまれている。1973年に発売されたコンパクト盤「実用ベスト4シリーズ・4大音頭」では、「東京音頭」「炭坑節」「相馬盆踊り」とともに「オバQ音頭」が収録されている。
キャラクタービジネス
本作の商品化業務は、漫画連載を行っていた小学館が担った。これは、放映局のTBSから「オアシのないものがオアシ(銭)を稼ぐはずがない」と否定的な見解が下され、関係各社でも同様の判断が下されたことにより、放映当初は商品化する会社がほとんどいなかったためである。ところが放映開始から半年ほどで人気が爆発。巨額の商品化収入によって潤った小学館が1967年に建築した本社ビルは「オバQビル」とも呼ばれるようになった[11]。この小学館ビルが2013年に解体を控えた際、壁に漫画家たちが落書きをしたイベントでは、本来Q太郎の作画を担当した藤本(既に他界)に代わって安孫子(藤子Ⓐ)がQ太郎のイラストを書きサインを添えていた[12]。本作で培った小学館のキャラクタービジネスのノウハウは、後年の『ドラえもん』、『名探偵コナン』、『ポケットモンスターシリーズ』などでも生かされている[13]
痛ましい事故
ブームの喧騒の一方で、子供たちの間で流行した「オバQごっこ」(白いビニール袋を被って遊ぶ)により女児が窒息死するという事故が起きている。当時の関係者らはこの遊びに関して注意を呼びかけた[14]
連載とアニメの『パーマン』への移行
1966年秋 人気継続の中のスポンサーの要望
アニメの放送開始から1年以上が経過しても人気は衰えることなく、テレビアニメも30%を超える高視聴率を継続していたが(
円谷プロダクション制作の『ウルトラQ』『ウルトラマン』と共にTBSの日曜夜7時台は、他局から「恐怖のQQタイム」と呼ばれていた)、スポンサーの不二家から「オバQ商品の売れ行きはピークに達した。これ以上の売上は見込めないので、新しいキャラクター(の番組)にしてくれ」という強い要望が出たため[15]、本作の連載とアニメ放送は新しい作品に切り替えることになった。


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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