ヨーコが2歳の時、父の暮らすサンフランシスコへ転居したが、2年後には母と共に日本へ帰国し、幼少期は安田家の鎌倉の別荘で暮らした。
米国から帰国後、自由学園(幼稚園)、学習院初等科へ通い、父の転勤に伴い、再び渡米しニューヨークに転居、ロングアイランドのパブリックスクール(公立小学校)に通った。帰国後、啓明学園初等学校、青山の青南小学校に編入した。学習院女子中・高等科を経て、1952年に学習院大学の哲学科に入学。1953年、20歳の時に家族と共に父親の赴任先であるニューヨーク郊外のスカーズデールに移り住み、サラ・ローレンス大学に入学、音楽と詩を学ぶ。 サラ・ローレンス大学在学中の1956年に一柳慧と出会い、同大学を退学し結婚、前衛芸術活動を開始する。 1959年、ニューヨークを活動拠点とするフルクサスのジョージ・マチューナスらと共に活動を行う。床に置かれたキャンバスを観客が踏みつけることで完成する作品『踏まれるための絵画』(Painting To Be Stepped On)は当時の代表作のひとつ。また、カーネギー・ホールでパフォーマンスを行う。 1961年、後の夫になる米国の映像作家アンソニー・コックス
1950年代・60年代
1962年から1964年まで帰国、観客が彼女の衣装をはさみで切り取るパフォーマンス『カット・ピース(英語版)』(Cut Piece)[5] や、言葉による作品集『グレープフルーツ(英語版)』(Grapefruit)などの作品を発表した。当時の日本は、前衛芸術というものに慣れておらず、評価は低く、評論家にも批判される。 1962年、29歳で自殺を図り精神病院に入れられる。ヨーコに憧れニューヨークから来日したアンソニー・コックスが 、ヨーコを口説き落とし退院させた。11月28日に結婚しようとするが、一柳との離婚が法的に成立しておらず、1963年3月1日に結婚は「無効」とされてしまう。同年の6月6日に再度結婚をする。1963年8月8日、娘キョーコをもうける。 1964年、ニューヨークに戻り、活動を再開する。1966年にロンドンの現代芸術協会 ジョン・レノンとの出会いは1966年11月9日。ロンドンのインディカ・ギャラリー
アンソニー・コックスとの出会い、娘の誕生
ジョン・レノンとの出会いと活動
1969年3月20日、ジブラルタルで結婚[2]。米国では「ミドルネーム方式」を選ぶことも可能で、本名はヨーコ・オノ・レノンとなり、ジョンはジョン・ウィンストン・オノ・レノンとなった。
当時、激化するベトナム戦争に反対して、『ベッド・イン』や『ウォー・イズ・オーヴァー』ポスター・キャンペーンなどの独自の「愛と平和」活動を展開した。
1969年12月、プラスティック・オノ・バンドのファースト・アルバム『平和の祈りをこめて』を発表した。
1970年12月、ファースト・アルバム『ヨーコの心(英語版)』を発表した。
1971年3月、『フライ(英語版)』を発表した。 「ビートルズを解散させた女」として非難された。結婚前後の2人の活動は、奇妙な立ち居振る舞いと映り、数多くの非難と中傷がヨーコに対して浴びせられた。
1970年代