包囲は1219年9月から開始され、5か月目に守将の一人であるカラジャ・ハーンが降伏を提案する。将兵はイナルチュクのために戦い抜くことを主張したため、カラジャ・ハーンはわずかな兵士を伴ってモンゴル軍に降伏するが、彼の助命嘆願は受け入れられなかった。城内はモンゴル軍によって破壊され、住民はブハラに連行された[3][5]。遠征のきっかけをつくった総督イナルチュクはチンギス・ハーンの面前に引き出され、両目と両耳に溶かした銀を流し込まれて殺された[5]。
その後、都市はモンゴル帝国のもとである程度復興し、オゴデイの治世には貨幣鋳造所が建設された[2]。軍事・交通の要衝であるオトラルは、中央アジアに成立したジョチ・ウルス(キプチャク・ハン国)とチャガタイ・ウルス(チャガタイ・ハン国)の係争の地となる[2]。オトラルはジョチ・ウルスの支配下に置かれていたが、チャガタイ・ウルスのアルグによって奪取される[3]。1376年にティムールはジョチ家が支配するオトラルを征服し、町はティムール朝の支配を受ける[2]。1404年11月末にティムールは東方遠征に出発するが、翌1405年2月にオトラルで病死した[6]。
15世紀末にはウズベク、16世紀にはカザフがオトラルを支配した[2]。18世紀の時点でオトラルの重要性は大きく低下していたが、19世紀初頭までは人間が居住していた[2]。その後、オアシスの水源が枯渇して放棄され[要出典]、廃墟となった。 典拠管理データベース: 国立図書館
脚注^ イブン・バットゥータ『大旅行記』4巻(家島彦一訳注, 東洋文庫, 平凡社, 1999年9月)、234頁
^ a b c d e f 堀川「オトラル」『中央ユーラシアを知る事典』、104頁
^ a b c d 『シルクロード事典』、93-95頁
^ ドーソン『モンゴル帝国史』1巻、177-178頁
^ a b ドーソン『モンゴル帝国史』1巻、192頁
^ 川口琢司『ティムール帝国』(講談社選書メチエ, 講談社, 2014年3月)、163-164頁
参考文献
堀川徹「オトラル」『中央ユーラシアを知る事典』収録(平凡社, 2005年4月)
C.M.ドーソン『モンゴル帝国史』1巻(佐口透訳注, 東洋文庫, 平凡社, 1968年3月)
『シルクロード事典』(前嶋信次、加藤九祚共編, 芙蓉書房, 1975年1月)
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