オトマール・シュパン
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オトマール・シュパン
生誕 (1878-10-01) 1878年10月1日
オーストリア=ハンガリー帝国ウィーン・アルトマンスドルフ
死没1950年7月8日(1950-07-08)(71歳)
オーストリア・ノイシュタット・バイ・シュライニング
時代20世紀の哲学
地域西洋哲学
出身校ウィーン大学
チューリッヒ大学
ベルン大学
テュービンゲン大学(博士)
研究機関ウィーン大学
ブルノ工科大学
研究分野経済学社会哲学政治哲学
主な概念コーポラティズム
影響を受けた人物

アダム・ミュラー、マイスター・エックハルト

影響を与えた人物

オスカー・モルゲンシュテルンフリードリヒ・ハイエクエリック・フェーゲリン、ヘルマン・ドーイウェールト、ゴットフリート・ハーバラー

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オトマール・シュパン(Othmar Spann、1878年10月1日 - 1950年7月8日)は、オーストリア保守派経済学者哲学者社会学者権威主義コーポラティズムの理論家。オーストロファシズムの先駆者[1]。オーストリア保守革命の代表者。アダム・ミュラーのロマン主義に依拠し、自由主義社会主義の双方に反対した。[2]
生涯
若年期

ウィーン郊外のアルトマンスドルフ出身。父は発明家のヨーゼフ・シュパン。1898年、ビュルガーシューレ(Burgerschule、市民学校)卒業。ウィーン大学で哲学を2学期、チューリッヒ大学ベルン大学で政治学をそれぞれ1学期修める。1903年、テュービンゲン大学政治学博士(Doktor der Staatswissenschaften、Dr. sc. pol.)。学位論文は「現代社会学における社会概念の批判について」(?Zur Kritik des Gesellschaftsbegriffes der modernen Soziologie“)。[2][3]

フランクフルトで社会調査に従事した後、オーストリア政府で国勢調査を担当する。1907年、政治経済学のハビリテーション取得。私講師となる。第一次世界大戦に従軍し、東部戦線で負傷した。1919年、ウィーン大学教授。1938年の退官まで教鞭を執る。[2]
政治活動

コーポラティズムの理論を打ち立て、政治への導入を主張した。1928年、ドイツ文化闘争同盟参加。1930年頃にはナチ党に入党する。

カール・ポランニーは、シュパンの哲学や反個人主義がファシズムに多大な影響を与えたとしている[4]
教職追放

同年代の時代精神とは思想を一致させていたが、アンシュルス直後の1938年に(ナチ党員にもかかわらず)ナチ党によって投獄され、最終的にウィーン大学の教授職を解かれた。1950年、失意のうちに死去する。[2]
主な門下生

オスカー・モルゲンシュテルン(オーストリア学派、ゲーム理論)

フリードリヒ・ハイエク(オーストリア学派、ノーベル経済学賞)

エリック・フェーゲリン(政治哲学、永遠の哲学

著作

Akademische Druck- und Verlagsanstalt(グラーツ)より全集(Othmar Spann Gesamtausgabe)が出版されている(1963年-1979年)。以下、同全集に従う。
Fruhe Schriften in Auswahl. 1974

Die Haupttheorien in der Volkswirtschaftslehre. 1969

Fundament der Volkswirtschaftslehre. 1967

Gesellschaftslehre 1969

Der wahre Staat. Vorlesungen uber Abbruch und Neubau des Staates. 1972


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