1931年、東京のイリス商会が設立したパルロフォンレコード[12]に吸収[13]される。1932年にはレコードの製造販売を停止[14]。パルロフォン社は1933年8月、原盤を日本蓄音器商会(現:日本コロムビア)に引き継いで、レコードの製作を中止した。
1963年1月、EMI(オデオンの親会社)の日本発売元だった東芝音楽工業(後の東芝EMI → EMIミュージック・ジャパンを経て、現在のユニバーサル ミュージック合同会社[15])が、EMI傘下の英コロムビア・レコードの日本配給権が日本コロムビアから東芝に移行したのを受け、それまでクラシック・ポピュラー問わずヨーロッパのEMI系列の洋楽の音源全般を統括していた「エンジェル・レコード」を、クラシック系を「エンジェル」、ポピュラー系を「オデオン」と分割し、ヨーロッパ圏の洋楽ポピュラーの販売を開始した[16]。エンジェル・レコードは天使のイラストを使ったレーベル・デザインで、他の国とレーベルロゴのデザインとほぼ同じだが、オデオンレコードは他の国に多い劇場のイラストを使ったものではなく、「Odeon」の「O」がレコードの溝のデザインになっている、日本独自のレーベル・デザインになっている。
東芝音楽工業のディレクターで、日本でのビートルズ人気を仕掛けた高嶋弘之が、洋楽担当としてビートルズを売り出すにあたり、当時の東芝音楽工業にあった「エンジェル・レコード」などの既存の洋楽レーベルではグループのイメージに合わないと考え、世界中のEMIが擁したレーベルから探したところ、この時点で日本では設立されたばかりで、特定のアーティストの色も付いておらず、響きも良かった「オデオンレコード」を、ビートルズのレコードに使用するようになった。
高嶋は「日本のオデオンレコード」は、日本で「独自に作った」「適当につけた」もので、海外での「オデオンレーベル」と、日本とでは「ロゴの形も扱う音楽も全然違う」、「日本のオデオン(レーベル)はあっち(海外)とは無関係に独自で発展したもの」と後年になって証言しているが、前出の通り、日本のオデオンレコードはビートルズの日本でのデビュー前に既に設立されており、実際には諸外国のオデオンレコードの扱いに準拠したものと考えられる。 ブラジルでエジソンの蓄音機と蝋管の販売をしていたフレッジ・フィギネル(Fred Figner)が、1900年にレコード会社「カーザ・エジソン
ブラジル
1917年にドンガ&マウロ・ジ・アルメイダ作の楽曲「ペロ・テレフォーニ」を発売。これがブラジルで録音された最初のサンバと見なされている[19][20]。
1931年、会社はEMIによって法人化され、社名を変更(Industrias Eletricas E Musicais Fabrica Odeon S.A.[21])。
1974年からは社名を「EMI-オデオン(ポルトガル語: EMI-Odeon Fonografica, Industrial e Eletronica[22])」として新譜の発売を続けた。2012年に親会社のEMIがユニバーサル ミュージック グループに売却されたことに伴い、カタログがユニバーサル ミュージック グループの傘下に入った。 1919年11月、「The Argentine Talking Machine Works」が誕生。オデオン・レーベルのレコードがアルゼンチン国内で生産されるようになる。 1920年に、オデオンのサブレーベルとして「ディスコ・ナシオナル(スペイン語: Disco Nacional)」が誕生[23]。1923年には「ディスコ・ナシオナル・オデオン(スペイン語:Disco Nacional Odeon)」へ社名を変更する。 しかし、1934年1月にアルゼンチンの法律で「ナシオナル(=スペイン語で国家の、国民の、国有の?を意味する)」の単語を非政府機関が使用することが禁止された[23]ため、社名を「ディスコ・クリオーリョ・オデオン(スペイン語:Disco Criollo Odeon)」へ変更する。 1936年からは「Industrias Electricas Y Musicales Odeon[24]」がオデオンのロゴを使いレコードを発売した。 1970年代に社名が「EMI-Odeon S.A.I.C.」に変更された[25]。EMI-Odeon S.A.I.C.は、2012年に親会社のEMIがユニバーサル ミュージック グループに売却されるまでの間、オデオンの名を社名に冠し、経営を続けた。
アルゼンチン
脚注[脚注の使い方]^ “Odeon in America
^ a b c International Talking Machine Co. m.b.H. Discography 。