法律の学業はかなり疎かになっていたようだが、政治学の方ではアルノルト・ヘルマン・ルートヴィヒ・ヘーレン(ドイツ語版)の歴史学の授業を気に入り、後年にもビスマルクは彼の言葉をしばしば引用した[30][注釈 9]。
1833年9月にゲッティンゲンを離れてベルリンに戻り、1834年5月からベルリン大学に入学した[32]。ベルリン大学でも勉学に熱心ではなく、ベルリンの社交界で活動することに熱心だった。ビスマルクの学業怠慢を心配した母ヴィルヘルミーネは文官ではなく軍人を目指してはどうかと勧めたが、ビスマルクには軍人になる気は全く無かった[33]。
ビスマルクは体系的な学問は続かなかったが、議論好きだったので読書して教養を付けるのは好きだった。世界観の問題、特に宗教の問題をよく討議した。この場合ビスマルクは常に不信仰の側に立ち、宗教に懐疑的だったという[34]。ドイツ観念論には興味を示さず、ヘーゲル右派にもヘーゲル左派にも近付かなかった。またロマン主義にもほとんど関心がなかったが、フリードリヒ・フォン・シラーはよく読んだという[35]。またシェイクスピアやバイロンなどイギリス文学にも関心を示し、これらを通じて英語力を高めた[36]。
1834年夏には幼少期からの友人モーリッツ・フォン・ブランケンブルク(ドイツ語版)の叔父で当時参謀本部地図作成部に勤務していたアルブレヒト・フォン・ローン中尉(ドイツ語版)の仕事をモーリッツとともに手伝い、ローンの知遇を得た[37]。
官吏試補1836年、22歳の頃のビスマルクを描いた絵画
1835年3月にベルリン大学を去り、5月に高等裁判所の第一次司法試験に合格した。ベルリンの王立裁判所で司法試補教育を受けたが、やがて司法の仕事に飽き始めた。1836年6月末に行政官になるための第2次試験を受けて合格し、アーヘンの県庁で行政官試補として勤務するようになった。ビスマルクは更に外交官に転じたがっていたが、外務省からも県知事からも認められなかった[38]。
アーヘンは有名な温泉地であり、イギリス人を中心に外国人旅行客が多く、社交界にもイギリス人が多く出入りしていた。流暢な英語をしゃべるビスマルクはイギリス人女性たちと付き合う様になり、仕事への熱意がなくなった。さらに交際費を稼ぐためルーレット賭博に手を出して借金を背負った。イングランド国教会牧師の娘との交際のためにビスマルクは独断で休暇を取り、ヴィースバーデンへ移ったが、経済的な問題から結婚することはできなかった[39]。
失恋に終わったビスマルクは適当な理由をつけて更に休暇を伸ばそうとしたが、アーヘン県知事から却下された[40]。しかし他の県庁への転勤は許可され、1837年9月からポツダムに転勤した[41]。
ポツダムで数か月勤務した後、プロイセン陸軍の1年の兵役を終わらせてしまうことに決め、1838年3月末にポツダムの近衛狙撃連隊に入隊した[41]。ついでグライフスヴァルトのポメルン狙撃部隊に入営して兵役を終えた[42]。
ビスマルクは兵役後も県庁の仕事に興味が持てず、ユンカーとして農業経営に携わる決意を固めた。ちょうどこの頃、ビスマルク家の農場を実質的に運営していた母の癌が悪化したので(母は1839年1月1日に死去)、父は長男ベルンハルト(ドイツ語版)と四男ビスマルクに農場を任せるようになった[43]。 1839年の復活祭にポンメルンのクニープホーフの農場に戻り[44]、兄ベルンハルトと共に農場の管理にあたった。1841年に兄がナウガルト郡長に選出されると兄弟間で仮の所有分割が行われ、クニープホーフとキュルツの農場をビスマルクが監督することとなった[45]。ナウガルト郡長である兄の代理もしばしば務めた[44]。 プロイセンの農業生産は19世紀初頭から右肩上がりに伸びており、ビスマルクの農場経営も順調だった。当時のユンカーの独立性は強く、ビスマルクも農民に対して領主警察権や裁判権を行使して絶対的領主として接した。郡の委員会などに出席した時には他のユンカーと親しくし、狩猟をよく共にした。しかしこの頃のビスマルクは放埓に振舞って「気違いユンカー」の異名をとっていたという[46]。 農業経営が軌道に乗って借金返済も順調に進んだので、1842年7月から9月にかけてイギリス、フランス、スイスを歴訪した。イギリスのマンチェスターでは世界最大の機械工場とマニュファクチュアを見学し、その技術に感銘を受けたが、当時マンチェスターで盛り上がっていたチャーティズム運動などの社会問題にはほとんど関心を払わなかったという[47]。 1843年から友人モーリッツ・フォン・ブランケンブルクも司法官を辞めて父親の農場の経営にあたるようになった[48]。
農場経営
敬虔主義のサークルで.mw-parser-output .tmulti .thumbinner{display:flex;flex-direction:column}.mw-parser-output .tmulti .trow{display:flex;flex-direction:row;clear:left;flex-wrap:wrap;width:100%;box-sizing:border-box}.mw-parser-output .tmulti .tsingle{margin:1px;float:left}.mw-parser-output .tmulti .theader{clear:both;font-weight:bold;text-align:center;align-self:center;background-color:transparent;width:100%}.mw-parser-output .tmulti .thumbcaption{background-color:transparent}.mw-parser-output .tmulti .text-align-left{text-align:left}.mw-parser-output .tmulti .text-align-right{text-align:right}.mw-parser-output .tmulti .text-align-center{text-align:center}@media all and (max-width:720px){.mw-parser-output .tmulti .thumbinner{width:100%!important;box-sizing:border-box;max-width:none!important;align-items:center}.mw-parser-output .tmulti .trow{justify-content:center}.mw-parser-output .tmulti .tsingle{float:none!important;max-width:100%!important;box-sizing:border-box;align-items:center}.mw-parser-output .tmulti .trow>.thumbcaption{text-align:center}}ルートヴィヒ・フォン・ゲルラッハ(左)とレオポルト・フォン・ゲルラッハ(右)。