オットー・フォン・ビスマルク
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^ 1871年3月21日爵命。
^ ビスマルクはこの領地代えについて普仏戦争中に「ホーエンツォレルン家が狩猟上の恨みでビスマルク家にありとあらゆる強制と暴力で押し付けたもの」と不満げに語っている[3]
^ フランス革命ナポレオン戦争の成果を全面的に否定し、革命フランスやナポレオンに奪われた各国の主権をフランス革命以前の正統な君主に戻すというウィーン体制の根本思想[7][8]
^ ビスマルクのドイツ統一までドイツという名前の国家は存在せず、それは中欧の地方名であった。1806年まで神聖ローマ帝国という小領邦国家から成る連邦国家はあったが、この帝国の皇帝位に就いていたオーストリア帝国ハプスブルク家の権威はオーストリアにしか及んでいなかった。神聖ローマ帝国がナポレオン軍に敗れた後、小領邦国家は陪臣化・世俗化(ドイツ語版)で39か国にまとめられた。正統主義を旨とするウィーン体制下になってもこの状態は維持された[9][10]
^ ドイツ連邦はビスマルクの創設した北ドイツ連邦やドイツ帝国と比べて統一性が圧倒的に弱く、独立国家の連合体に過ぎなかった。連邦内の最大の大国であるオーストリアが連邦議会(ドイツ語版)議長国という立場であったものの、覇権国の出現は阻止される構造になっており、連邦議会本会議においては大国も4票しか持たず、逆に小国であっても必ず1票はもっていた。しかも議決には三分の二という高いハードルが必要とされたので(連邦規約改正など重大問題は全会一致)、大国だけで勝手に決めることはできなかった。とはいえ決議案の事前交渉で各国に影響力を発揮した国は議長国オーストリアとそれに次ぐ大国プロイセンであった。そのためドイツ連邦は自然とこの両国共通の国益とドイツ政策を話し合う場と化していった[11]
^ 民主主義とは自由主義の中でも極端な急進派のこと。大ブルジョワは保守派と妥協的な自由主義者が多かったが、小ブルジョワや下層民は急進的自由主義者になりやすく、彼らを民主派と呼んで一般の自由主義者と区別した[13]
^ ただしこれはビスマルクが首相就任後にドイツ統一事業の中で自由主義ナショナリズムと手を組むことになったから自分の行動に一貫性を持たせるために回顧録に若いころの心情としてこう書いただけでブルシェンシャフトに実際に近づいたか疑問視する説もある[28]
^ ヘーレンは今の時代は各国家や各地域が経済・通商で物質的に相互依存を深めている傾向があり、そこから抗争が生まれながらも国際関係のシステムがつくられつつあり、ナポレオンのようにそのシステムに逆らって行動する者は失敗すると説いていた。ヘーレンの対外政策に関する思想はビスマルクに影響を与えたと見られている[31]
^ 今日のドイツ国旗でもある黒赤金の旗はもともとブルシェンシャフトの旗でドイツ・ナショナリズム、ドイツ統一のシンボルである。ドイツ連邦議会はこの旗を危険視して長らく使用を禁止していたが、1848年革命で誕生したドイツ国民議会により国家色に定められた[66]
^ プロイセンの工業力は急成長中で国際競争力があったが、オーストリアの工業は脆弱で保護貿易が必要だった。そのためオーストリア首相シュヴァルツェンベルクはプロイセンの関税同盟に取って代わる関税連合構想を提唱したが、オーストリアを除くドイツ各国のブルジョワジーにとって魅力的だったのはプロイセンの関税同盟の方であり、関税連合構想への支持は広がらなかった[106]。結局オーストリアが屈する形で1853年2月に普墺間に通商条約が締結され、プロイセン工業にオーストリア市場を提供しつつ、英仏露に対しては関税障壁を作るということになった。これで両国の争いは一時的に収束したが、1857年の不況と1859年のイタリア統一戦争をめぐる財政破たんを経てオーストリアが保護貿易への渇望を強め、1850年代終わりから1860年代初頭にかけて関税問題が再燃することとなる[107]
^ 彼らは1851年から『プロイセン週報』という機関紙を発行するようになったためこう呼ばれた。指導者は駐英大使クリスティアン・カール・ヨシアス・フォン・ブンゼン(ドイツ語版)。他の主要メンバーは、アルベルト・フォン・プルタレス伯爵やロベルト・フォン・デア・ゴルツ(ドイツ語版)伯爵、グイド・フォン・ウーゼドム(ドイツ語版)など。当時自由主義的になっていた皇太弟ヴィルヘルムに近い立場をとっていた[113]
^ ロシアは1848年革命の際にオーストリアのハンガリー民族運動弾圧に助力したので、その借りをオーストリアが返してくれることを期待していたが、オーストリアでは1852年4月にシュヴァルツェンベルクが死去しており、以降外相カール・フォン・ブオル=シャウエンシュタイン伯爵が外交を主導していた。彼はロシアの孤立状態に付け込み、バルカン半島にオーストリアの影響力を拡大させる政策を追求した[116]
^ ビスマルクは妻ヨハンナに宛てた手紙の中で「(ロシア人のオーストリア人への)敵意には限りがなく、私の推測を越えている。こちらに到着して初めて私は戦争が起きると信じるようになった。ロシア外交全体がオーストリアの息の根をどうやって止めるかということ以外には何も考えていない。」と書いている[130]
^ 当時のプロイセン軍制は解放戦争以来の旧態依然とした状態が続いており、改革は急務と考えられていた。だが軍部の保守派はこれに政治的意味も付加しようとしていた。すなわち兵役と予備役期間を延長することで兵の数を増やし、正規軍の新連隊を編成する一方、市民的なラントヴェーアの義務期間は縮小し、軍隊に対する王権の強化を図ろうという意図である。軍制改革は1850年代後半のオットー・テオドール・フォン・マントイフェル首相時代に軍事内局局長エドヴィン・フォン・マントイフェルが中心となって計画された。新時代内閣では自由主義的な陸相グスタフ・フォン・ボーニン(ドイツ語版)のもと、この計画は押し込められていたが、アルブレヒト・フォン・ローンが陸相となった後の1860年に蒸し返された[143]。プロイセン自由主義者は「オルミュッツの屈辱」の教訓でプロイセンの軍拡が必要との認識を強めていたが、軍を衆議院の統制下に置きたがっており、そのため正規軍の長い兵役やラントヴェーア縮小は軍隊への王権強化を図るものとして反対していた[144]
^ 妥協案は進歩党のカール・トヴェステン(ドイツ語版)、中央左派のフリードリヒ・シュターヴェンハーゲン(ドイツ語版)とハインリヒ・フォン・ジイベル(ドイツ語版)の三者によりだされた。この三者はドイツ問題解決のため軍を強化すること自体は必要不可欠と考えており、また国王を追い詰め過ぎると、国王が強硬保守内閣を発足させて無予算統治に突き進む恐れがあるとの懸念から政府と妥協する必要があると考えた。彼らの提出した妥協案は兵役を3年ではなく2年とすることと多少の軍事予算減額だけを条件とした内容だった。
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