オットー・フォン・ビスマルク
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^ ビスマルクは妻ヨハンナに宛てた手紙の中で「(ロシア人のオーストリア人への)敵意には限りがなく、私の推測を越えている。こちらに到着して初めて私は戦争が起きると信じるようになった。ロシア外交全体がオーストリアの息の根をどうやって止めるかということ以外には何も考えていない。」と書いている[130]
^ 当時のプロイセン軍制は解放戦争以来の旧態依然とした状態が続いており、改革は急務と考えられていた。だが軍部の保守派はこれに政治的意味も付加しようとしていた。すなわち兵役と予備役期間を延長することで兵の数を増やし、正規軍の新連隊を編成する一方、市民的なラントヴェーアの義務期間は縮小し、軍隊に対する王権の強化を図ろうという意図である。軍制改革は1850年代後半のオットー・テオドール・フォン・マントイフェル首相時代に軍事内局局長エドヴィン・フォン・マントイフェルが中心となって計画された。新時代内閣では自由主義的な陸相グスタフ・フォン・ボーニン(ドイツ語版)のもと、この計画は押し込められていたが、アルブレヒト・フォン・ローンが陸相となった後の1860年に蒸し返された[143]。プロイセン自由主義者は「オルミュッツの屈辱」の教訓でプロイセンの軍拡が必要との認識を強めていたが、軍を衆議院の統制下に置きたがっており、そのため正規軍の長い兵役やラントヴェーア縮小は軍隊への王権強化を図るものとして反対していた[144]
^ 妥協案は進歩党のカール・トヴェステン(ドイツ語版)、中央左派のフリードリヒ・シュターヴェンハーゲン(ドイツ語版)とハインリヒ・フォン・ジイベル(ドイツ語版)の三者によりだされた。この三者はドイツ問題解決のため軍を強化すること自体は必要不可欠と考えており、また国王を追い詰め過ぎると、国王が強硬保守内閣を発足させて無予算統治に突き進む恐れがあるとの懸念から政府と妥協する必要があると考えた。彼らの提出した妥協案は兵役を3年ではなく2年とすることと多少の軍事予算減額だけを条件とした内容だった。9月17日に陸相ローンがこの妥協案の受け入れに前向きな姿勢を示したことで衆議院は一時宥和的ムードになるも同日の閣議で国王が兵役3年を譲歩することは許さないと退けたため、ローンは9月18日に前日の妥協案受け入れの意思表明を撤回し、それに反発した衆議院は9月19日に妥協案を否決している[151]
^ たとえば妥協派の進歩党議員カール・トヴェステンは新首相ビスマルクを軍事内局局長マントイフェル将軍の操り人形と見ていた。ビスマルクの役割は衆議院を挑発して衆議院を暴走させることで、それを理由にマントイフェルが国王に衆議院に対するクーデタを進言する算段に違いないと疑っていた[161]
^ たとえばハインリヒ・フォン・トライチュケは書簡の中で「私はプロイセンを愛しているが、ビスマルクごとき浅薄なユンカーが『鉄と血』でドイツを征服するなどと大言壮語しているとただ滑稽さが陳腐さを上回っているように思える」と書いている。陸相ローンは自分たちの目的に利するところのない「機知にとんだ無駄話」と評した。バーデン大公国外相フランツ・フォン・ロッゲンバッハ(ドイツ語版)はビスマルクの鉄血演説について触れた書簡の中で「この人物とこの体制に仮借ない攻撃を加えねばならない」と書いた[165]。オーストリアやバイエルンなど反プロイセン的なドイツ諸国もこの演説でプロイセンへの警戒を一層強めた[166]
^ ただしラッサールの提唱する生産組合は大規模であること、また普通選挙の存在が前提となっていた。そのためラッサールはヴェステギアースドルフ生産組合について反対こそしなかったが、不満を述べて協力しなかった[183]
^ 自由主義的なところがあるロシア帝国外相アレクサンドル・ゴルチャコフは、民族運動の擁護者を自負するナポレオン3世のフランスとの連携を企図しており、ポーランドにある程度の自治を認めることでフランスに恩を売り、露仏同盟を結びたいと考えていた。対してロシア皇帝アレクサンドル2世ら保守派はポーランド独立運動へのいかなる譲歩にも反対していた。つまりアルフェンスレーベン協定とはビスマルクがロシア保守派と連携して、ロシア自由主義派の狙う露仏同盟の動きを封じ込めた物であった[186]
^ この時期、王妃アウグスタ、フリードリヒ皇太子夫妻、シュライニッツ宮内大臣、ゴルツ、ベルンシュトルフなど宮廷自由主義派の活動が再び盛んになっていた。彼らはアウグステンブルク公を支持して中小邦国の運動の先頭に立つことでドイツ連邦内におけるプロイセンの覇権を確固たるものとすべきと主張しており、国王もこれに影響を受けていた[203]。また国王はプロイセン軍の将校でもあるアウグステンブルク公世子フリードリヒに対して個人的好意を持っていた[204]
^ オーストリアはドイツ連邦や中小邦国と異なりロンドン議定書署名国であった。ドイツ内では「デンマークがロンドン議定書を守らないのだから普墺もロンドン議定書を守る必要はなく、アウグステンブルク公を支持すべき」という声が強くなっていたが、レヒベルク外相はそういう論法はドイツ諸国以外には受け入れられないと考えていた[209]。当時オーストリアは国際的に孤立していた。ロシアとはポーランド問題以降一層関係が悪化したし、フランスとも関係が悪くなっていた(1863年11月にナポレオン3世が提唱した欧州大会議にオーストリアはヴェネツィア領有権問題をかけられる事を恐れて反対した)。そのためオーストリアとしてはロンドン議定書に反する行動をとって更に孤立を深めたり、プロイセンと敵対を深める危険を冒すわけにはいかなかった[210]。またプロイセンにドイツ統一問題での単独行動を許してプロイセンがドイツ内で名声を得るといった事態も阻止せねばならなかった[211]
^ オーストリア外相レヒベルクの目標はあくまでロンドン議定書通りに両公国を一体の物としてデンマーク王冠に結び付けることにあり、議定書違反のユトランド侵攻には反対だった。オーストリア軍には占領範囲を拡大できるほど財政的ゆとりがなかったので尚更だった[215]
^ オーストリアの政府・世論の多数派である大ドイツ主義者は連邦改革がまだ可能と信じていたが、レヒベルクら保守派は連邦改革は見込みなしと見ており、ビスマルクの主張する普墺の保守的連帯の方に魅力を感じていた[223]
^ これまでオーストリアの関税連合構想に従って普仏通商条約を拒否していたバイエルンとヴュルテンベルクが、1864年10月にビスマルクの関税同盟解消も辞さない脅迫的な態度に屈して通商条約批准を表明した[235]
^ ビスマルクはプロイセンに好意的なレヒベルクを失脚させないため、できるだけレヒベルクに歩み寄って交渉を成功させられるかのような雰囲気を作ってやるべきと訴えていたが、ルドルフ・フォン・デルブリュック(ドイツ語版)ら経済政策専門家がいかなる譲歩にも反対し、国王もそちらの意見を受け入れたという経緯だった[238]
^ 特にフランスはこの頃メキシコ出兵が失敗に終わるのが確実な情勢となっており、その後、名誉挽回のため中欧に野心の矛先を向けてくると考えられていた。ロシアはクリミア戦争以来オーストリアを恨んでいるが、自分たちの発言権を確保したいという願望はそれ以上に強いので絶えず動揺していた[245]
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